ジュリアン


映画は離婚調停に始まる。夫アントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)側の弁護士は「彼は息子の陳述に大変心を痛めています」と述べるが、裁判官がその文章を読み上げる間、彼は当の弁護士と話をしており注意されていた…という描写が「嘘をついている」のは彼の方だと示唆しつつ、場面は家庭の中へと移っていく。

以降、このような状況が何らかの形で映像に残されていたら先の調停はどうなったろうと思ってしまう場面が続く。そう考えるのはナンセンスではなく、家族とは密室で進行するものだ(そして妻ミリアムのように被害を受けている者ほど証拠を残しづらいのだ)ということをこの映画は語っているのである。

何度も繰り返される、11歳のジュリアンが父アントワーヌの車に乗せられている場面に最も息が詰まる。「追い出された」(「天才作家の妻」然り、このような男性は自分こそ被害者だと考えている)アントワーヌにとって車内は唯一の自分の領域。かつて色々なことがあったのかもしれない小型のバンの中に馴染んだ物の数々、降り際にドアを開けると聞こえるのどかな鳥の声、全てが恐ろしい。

終盤向かいの部屋の老女の電話から警察の人員が映るとようやく息がつけるように、風が吹き抜けたように感じられるのは、家族の問題が世界に繋がったからである。しかし映画が、目の前でドアを閉められた彼女が…ただしそこには大きな穴が幾つも空いているし鍵だって掛けられておらず、いつだってアクセス可能だが…チェーンまで掛ける音で終わるのは、ここまで至らないと他人は関与してくれないということの表れにも思われた。

出てくる成人男性はことごとく、悪人とまではいかないが優しさも勇気も持ち合わせていない。「あのくずめ、俺が話をつけてやる」と言いつつソファから立ち上がらないミリアムの父親、息子の荷物を放り出し「ここは俺の家だ」と自分の領域を守るだけのアントワーヌの父親、ミリアムと特別な関係ながらアントワーヌに「妻と話をしてる」と言われればあっさり引き下がる男。

彼らがアントワーヌの問題について何もしないのは、警察によって彼が逮捕されるという物語の結末に行きつくための映画の都合である。実際には警察に情報が届かず、あるいは無視され、あるいは間に合わず、被害者が多く出ていることを踏まえると、それは逆説的に、誰か一人でも強く働きかけていればあのような事態は避けられたかもしれないという訴えとも考えられる。私はそう受け取った。