俺たちとジュリア/地中海


イタリア映画祭に初めて出掛けてみた。たまたま時間の合った二作品を観賞し、後でパンフレットを見たら、マルゲリータ・ブイの出ている「私と彼女」というのが面白そうだけど、これには行けない、一般公開されればいいけど。



▼「俺たちとジュリア」は、パンフレットによれば「喜劇俳優エドアルド・レオが監督した痛快コメディー」。私と同世代の40絡みの男三人が田舎の家を共同購入し、ホテルとして一儲けしようとする話…なんだけど、営業を始めるのは作品終盤。「変な奴ら」が次々と登場し、予想外の展開を見せる。


この手の映画においては「家」が生きているようにも見えることがあるけれど、本作では「家」の印象は極めて薄く、主役はあくまでもそこに集う人々。ホテルの名称は「変人たちの家」、「変人」が集まると誰も「変人」には見えなくなるというのが面白いけれど、そのせいもあって、半ば以降は当初の三人の存在感がかなり薄くなってしまう。
「変人」たちも変わってゆくが、それは仲間の影響というより、この映画の場合、「仕事」の内容がそうさせるのだ。マッチョなファウストエドアルド・レオ)はエプロンをつけて給仕をし、営業職なのにむっつりしていたディエゴはぺらぺらと嘘を語る。それは「仕事」が大切だから。これは「仕事」映画なのだ。


邦題の「俺たち」とはまさにその通りで、「女」と「外国人」はそういう「枠」であり、「俺たち」のしたくない、言ってみれば「汚れ仕事」をする役どころだった。「女」は来るなり「男ばかりだからゴミ屋敷ね」と掃除を始め、「外国人」は黙りこくって役に立っていたかと思えば、終盤の「俺が行く」には少々(作り手に)呆れてしまった。
加えて「女」が料理や掃除、売春などの「女の仕事」のみを請け負うことが、「『まるでレディー・ガガ』の格好(別に似ていない)」「多くの男はセックスを望まない容姿」などの(「男達から見れば」彼女らもまた「変人」なのだという)設定や、楽しそうに行うという描写でもって目くらましされているようで、少々むかついた。



▼「地中海」は「ジョナス・カルピニャーノ監督のデビュー作」だそうで、ブルキナファソの青年二人が出稼ぎのためリビア経由でイタリアに辿り着くことに成功する、それからの話。心臓に穴があいたような、とは比喩だけども、そうとしか思えない風の音、あれを忘れるためにリアーナのようなポップ・スターがいるのかと思ってしまった。


ブルキナファソ人で集まって楽しく騒いでいると、イタリア人の男が二人やってきて女を二人連れて行く、場は静まってしまう。この場面に、先に見た「俺たちとジュリア」の「外国人娼婦」の「ギャグ」が面白くないどころか不愉快だったのを思い出した。
しかし呑気なのは私もなのだ。主人公のアイヴァとアバスがイタリアへ来たばかりの頃、スクーターとすれ違い、その音や勢いにびっくりする(私もびっくりする)。少し後の夜、ブルキナファソ人の仲間と「車が無きゃな」などと話しながら歩いていると、彼らを追い抜いた車が前方でしばらく止まり、ターンして隣を走り抜け、またびっくりさせられる。この時はたまたまかもしれないなんて思っていたのだ。しかし「暴動」の晩に甘かったと思い知る。世界は「悪意」に満ちている。彼らは車をぶちのめす。


オレンジを収穫する仕事に就いた二人の、「雇い主はあんなにくそなのになぜ懸命に働く?」「ノルマが終われば早く解放されるだろ、ちゃんと考えろ」との会話が恐ろしい。状況の差異も原因だとはいえ、逆に言えば「その程度のこと」で、「持たざる者」は早々に分断される。勤勉なアイヴァはやがて雇い主に自宅での夕食に呼ばれるまでになり、しかしその食卓の風景に「マンディンゴ」などがふと重なり、いやそこまでじゃないだろうと思っていたら、アイヴァが雇用契約書のことを持ち出す場面でまたしても思い知った。「分かるよ、祖父はニューヨークへ渡ったんだ」と言いながら、笑っちゃうほど「親身」じゃない。
途中から実は「ルーム」を思い出していたのだった。地球上の全てが「部屋」であっても人間として生きられない人間もいると。そうしたら契約書のくだりの後に(「ルーム」でも印象的だった)「ネズミ」が登場し、アイヴァはそれを、何度も何度も踏みつぶすのだった(「弱い者が弱い者を踏みつける」って、こういうことでしょう?と先の「ジュリア」に言いたい)


お前がアイヴァじゃなくあのおじさんだったら、プレイヤーを盗まれて納得できるか?と自問しながら見ていたら、終盤、子どもが酒瓶を受け取りながら「それはお前のか?」との問いに「今は」と答えるのに、そうなんだ、と思った。物は何だって「今は」なのだと(見てない人には、いや見た人にもわけの分からない感想だな・笑)