めぐりあう日




「ママなの?」
「どこにいたの?」


自分の涙腺が信頼できるなと思ったことに、とある場面でふと涙が滲んだら、その後、とある重要なセリフがアンヌ・ブノワ演じるアネットの口から吐き出されるのだった。二つの横顔の後ろに、大輪の赤い花。大人になる機会を逃してきたのは誰だったのかが分かり、更に涙があふれた。彼女が学校の子どもたちと少々ぎくしゃくするのはそのせいだとも取れるし、最後にベンチに並んで腰かける二人の表情は、どちらが「人生の先達」とも言えないものだ。


オープニング、進行方向と逆に腰掛け、列車で自分の生まれた土地を目指す女性の姿に、先日見た「生きうつしのプリマ」(感想)の冒頭を思い出す。次いで彼女、エリザ(セリーヌ・サレット)がとある機関の職員と話している場面。「子どもはいないと言っています」との報告を受けた彼女は、糸の切れた凧のように見える。後には同じ椅子にアネットが座るが、その表情はエリザとは少し違う。いわば転換期だったのかもしれないと思う。


理学療法士であるエリザの仕事ぶりが何度も挿入される。それは患者が「息をする」手伝いをしているようにも見える。初めてやって来たアネットは「腕で私を抱いて揺らしてくれた」施術の終わりに、大きく息と声を漏らす。それはやがて彼女が「自分の人生を自分で語る」のに繋がっているようだ。アネットを始めとする「患者」達の体、正確に言うなら、エリザの施術を受けている時の彼らの体はとても美しい。最後に下着をつけるエリザの手付きもよく、ブラジャーって、人に着けてもらうんじゃ絶対にやり直さなきゃ済まないものだけど、私もしてもらいたくなった。


冒頭アネットの母親が、市場ではしゃぐ「外国人」とすれ違う際、娘に「バッグに気を付けて」と声を掛けるのは印象的だが、後にそれは「『機関銃』を突っ込まれないよう気を付けて」だったとも取れると分かる。とはいえ彼女による止まない差別が、アネットいわく「まるでギャング」の子らを生んでいると言える。「道具」を放り捨て海へと走っていく男の子達の後ろ姿を、彼女は見る。


アネットが、妻子がありながら出稼ぎ先の自分を妊娠させた男を「悪い人じゃない」と愛していたことは、この映画の最も大きな結び目であり、ラストの「今の恋人は彼のような瞳」で物語は円環となる(冒頭の兄のセリフが「伏線」だったとは)。またエリザが「12週を過ぎた」ため本国では禁止されている堕胎手術をベルギーまで出向いて受けることと対になっている、あるいは、別の言い方をするならば、私にはこの二つの要素が互いに「バランスを取っている」ように思われた。