20センチュリー・ウーマン



冒頭、ドロシー(アネット・ベニング)と「彼女が40歳で生んだ」ジェイミーとの消防車に腰掛けての会話において、母が息子の問いに「What?」の後やけに間を置いて答えるのに、私は早口で下手すると相手の発話に被っちゃうんだよなあ、落ち着かなきゃなあと反省したものだけど、そういうことじゃなかった。見ているうちに分かってくる。


ドロシーは20代のアビー(グレタ・ガーウィグ)と10代のジュリー(エル・ファニング)に、「今の時代のいい人間ってどんなふう?ジェイミーにはそういうふうになってほしい」と相談する。妙なことを言うと思ったけれど、彼女は実に「今」にこだわる人なのだった。ジュリーに対する「私の時代にはタバコは粋なものだった、だから体に悪くない」なんて冗談にもその精神がある(しかし結局タバコを渡す、そういう人なのだ)


ジェイミーをクラブへ連れて行ったアビーが踊りまくるボウイの「D.J.」は…尤も場面としては、次のドロシーとウィリアム(ビリー・クラダップ)のBLACK FLAG「対」Talking Headsに持っていかれちゃうけど(笑)…当時はまだボウイを知らない私にとって、とても時代を表している曲だから嬉しかった。アメリア・イアハートばりのアネット・ベニングが繋ぎを着るしね(笑)


作中に出てくるフェミニズム関連の本を私は全然読んでいない。引用される一節はどれも今だって「正しい」けれど、私は今の女の人が書いた本を読んで、間違っていても馬鹿でも何でもいいという、もっと「進んだ」気楽な見地を得られる。それはこの時代の本の数々があったからなのだ。つまり、本作の女達は、私からすると、正しくあらねばと生きているような息苦しい感じも受けるけれど、そんなふうに思えるのは彼女達がいたから、20世紀を生きた女達あってこその私なのだ。


ドロシーがアビーに「(ジェイミーへの)フェミニズム教育をやめて」と口にするのは、息子にとある文章を朗読された後である。それは、それが「正しい」からでも自分はあてはまらないからでもなく、ただ探られるのが苦痛だというふうに見えた。思えば彼女がこだわる「寄り添い」とは、「解決」と「何もしない」の間にあるのと同時に、裏を返せば「黙っている」ことでもある。これはアビーやジュリーが、フェミニズムに基づいて生きている筈がジェイミーに「男は頓着しなさそうに見えなくちゃ」「男は謎めいていなきゃ」などとぼんやりした夢を押し付けてくるのにも似ている。こんな矛盾は私もたくさん抱えている。


アビーがドロシーに「あなたは外の世界での息子を見られて羨ましい」と言われて(この時アビーが一瞬とても悲しそうな顔をするのは、自分にはそういう存在が持てないと考えたからだろうか)クラブで撮ったばかりの写真を見せる場面には、忘れていた基本的な写真の役割を思い出した。自分の見られないものを見られるってこと。この映画において、当時の文化を記録した写真や映像が幾つも挟み込まれるのだって、見たことのない人に伝えるためである(舞台が「今」ならああいう映画にはなるまい)。よくよく「伝える」ために作られた映画なのだと思う。「女性を描いた映画」なら、私としては、「今」、女が「普通」に生きてる話の方が全然好きだけどね、ポール・フェイグが作るやつみたいな。