おやすみなさいを言いたくて



とても面白い映画だと思った。報道写真家の妻と海洋生物学者の夫、共に「啓蒙」を仕事とする夫婦が着いている瀟洒な外食の席。同席者が妻の撮った写真を示し感想を述べると、彼女は「食事の時に見ない方がいい」。その晩二人は作中初めて「愛し合う」。「使い分け」が出来ている時のみ、彼らの関係は安定している。
例えば、作中の最初と最後に妻が取材している「あのような」事を、彼女が家族と仕事との板挟みで悩むという「このような」ドラマに織り込まれると何となく落ち着かない。そう感じる理由は分からない。ただ、ある時はこっちの問題、別のある時はこっちの問題、という「使い分け」により安心感が得られるということが、私の映画体験そのものからも分かる。しかし私を落ち着かせないゆえに、この映画は面白い。


主人公レベッカであるジュリエット・ビノシュが素晴らしい。冒頭に重症を負った際の「臨死体験」と、終盤に家を追われよそで眠る際の夢において、彼女が水中でとある(「通常」ならあり得ない)格好になる映像が挿入される。それが滑稽にも唐突にも見えないのは、全編に彼女の肉体が焼き付けられているから。人間は(「今のところは」?)一つの体を持ち、それを用いて生きていかねばならないという、当たり前のことが描かれているから。
レベッカが戦地から「帰宅」してしばらくの間に、果たしてこの家族は「本当の」家族だろうか?という妙な気持ちが何度か湧いた。彼女はちゃんと「元の」世界に戻ってきたのだろうかと。そんなことを思ったのは、全く違う「世界」を行き来するレベッカが覚える違和が、映画に息づいていたからだと思う。彼女は自分の家に体を置いてもうまく過ごせない。娘の部屋でスクラップブックをめくったり、洗濯物の匂いを嗅いだりするのがせいぜいなのだ。そしてその身に再び「危険」が近付くと、慣れた匂いにてこでも動かなくなる。


姉妹の描写により、年齢によるレディネスのような要素が見られたのも面白かった。レベッカは上の娘ステフに対しては性奴隷の現状についてもはっきりと語るが、まだ幼い下の娘リサに教えるのは、例えば可愛い子猫を二匹見ても選ぶのは片方だけ、というようなことくらい。夫はリサを含めたクラスにおいて授業を行う際、つい専門分野であるプルトニウムの害の話に流れそうになるが、子ども達の反応を見て「蟹のレース」に軌道修正する。
ステフのスケッチブックに描かれたレベッカの姿は、冒頭の取材における「生前葬」の「遺体」と重なりどきりとした。彼女だって、戦地に出向く度に「生前葬」を行っていてもおかしくない。オープニングのレベッカは自分を撮っていたとも言える。それを遠地で捉えるステフには、何か母親との繋がりが備わっている…と考えると面白い。実際に母親に同行し「危険」を体験すると、彼女の体はそれをすっかり吸い込み参ってしまう。ここにも肉体性がある。