BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント



とても楽しかった。ロアルド・ダールによる「オ・ヤサシ巨人BFG」の白眉は何と言っても終盤の「朝食」の場面。あれを映像で見られただけでも大満足(原作には出てこないコーギーがあんなことに!笑)。ここでソフィー(ルビー・バーンヒル)が「クリームたっぷりの苺」にまず手を付けるけれど、このお話ってまさにそう、「美味しいものだけ食べられたらいいな」ってやつなのだ。


「Roald Dahl's The BFG」のタイトルと共にビッグベンの音、「ロンドン」を示す一枚絵(これはロンドンでなきゃならない話だからね)、この昔ながらのシンプルなオープニングが嬉しく素晴らしい。それからスピルバーグの「けぶる」路地、院長に「気付かれない」ソフィー。毛布を被って登場するソフィーは、その後も何度か毛布に身を隠す。これは「子ども」であることを表しているようにも思われる。巨人の国に毛布を置いてきてしまったと分かった時、彼女はもう怖くないと言い張る。


このお話の馬鹿馬鹿しさからは、お話とは「作り出す」ものである、というある種の豊かさが感じられる。それが映画となると、その豊かさが強調される部分もあれば魔法が解けてしまう部分もあり、BFG(マーク・ライランス)が夜の闇に紛れて進む姿の面白さに対し、彼とソフィーそれぞれが夢を追い掛けてどたばたする一幕などは、スピルバーグ映画屈指のつまらなさだった(あんなに長くやるもんじゃない!)


不眠症」のソフィーは午前3時に「大嫌い」な養護施設の戸締まりをし、時計を合わせ、郵便物の仕分けをし、他の子らの安眠を守りさえする。大人がし忘れた、あるいは怠けてしなかった仕事をこなす彼女とBFGは、「独りぼっち」というだけじゃない、「頼まれもしない仕事を日課としている」という点でも似ている。この「仕事をせずにはいられない」というのは、先に述べた「お話を作るという豊かさ」にも繋がるように思う。


BFGが男の子に夢を見せ、その内容をソフィーに説明する場面で、確か原作では「男の子はこういうお話が好きだから」とか何とかいうやりとりがなされるんだけど、考えればこのお話そのものが、「子どもってこういうお話が好き」。だから「女王さま」なのだ。ジョン・ウィリアムズの音楽に彩られた巨人の国での初体験を描く前半はスピルバーグらしくてわくわくするけれど、一番児童文学らしい、いやダールらしい場面は「小さな女の子が窓のところに立ってるわ」。


宣伝に「E.T.」を引き合いに出しているのは単にメリッサ・マシスンが脚本を書いているからかと思いきや、原作ではBFGとソフィーは宮殿の隣に家を二つ建ててずっとお隣同士になるところを、「E.T.」同様それぞれの世界に帰っていく結末に変更されていた(作中BFGが語る「ソフィーの夢」に通じるところがある)。教育上「美味しいものだけ」に出来ないということか、あるいはそうした一抹の寂しさがまた、甘味の中の塩のように物語を引き立てるということか。


「オ・ヤサシ巨人BFG」も今回の映画化も、特に舞台となる時代は設定されておらず、いつの子どもにも入り込めるけれど、実際のところは、本国では1982年に出版されているから、74年生まれの私宛てといってもいいんだな!朝食の前にソフィーがメアリー(レベッカ・ホール)に鏡の前で髪を撫で付けてもらう場面で、ふと思い出した。私もあの年頃の時、髪は短く目はもう悪かった。