マダム・マロリーと魔法のスパイス



原作小説は未読。「共同体を作る」というテーマからしてまさにラッセ・ハルストレム映画、脚本は「ハミングバード」や「堕天使のパスポート」等のスティーヴン・ナイト
共に移民問題を扱った「ミリオンダラー・アーム」と本作がそう日を置かずして見られるというのは面白い。ディズニー配給、A.R.ラフマーンが音楽担当というのも同じ。ただしこちらの映画の最後の最後には、エリオットとE.T.スピルバーグらによるアンブリン・エンターテイメント)のロゴが出る。


インドを後にヨーロッパを放浪してきた一家がおんぼろの車でフェリーから降りようとする時、まずハルストレムの「光」が強烈に誘う。主人公ハッサン(マニッシュ・ダヤル)が「フランス料理」に初めて触れる時しかり、いつものように光が演出する。車の故障でハッサンとマルグリット(シャルロット・ルボン)が「出会うべくして」出会う場面では、やはりその光により、彼が彼女に恋したと分かる。林の中から二人がそれぞれ自転車に乗り戯れ、やがて光の中に出ることにより、恋が成就すると分かる。一方で初めて二人がキスする…インドとフランスが混じり合うのは真っ暗闇の中というのが面白い。
ハッサンのパパ(オム・プリ)とマダム・マロリー(ヘレン・ミレン)も暗闇の中で「almost」に至り、マロリーは夫の形見の家、すなわち自分自身をついに開け放ち彼を迎え入れる。この場面の、作中の言葉で言えば何て「class」があること、涙がこぼれそうになってしまった。そしてシャルロットもまた、ハッサンの「合図」を待って自分の窓を開くのだった。


オープニングはムンバイの市場で買い物をする母親と息子。運び込まれたばかりのウニに群がる女達の中、息子が一つを味見して恍惚としていると、店主が「全部売った、味の分かるこの子に」。ハッサンは「絶対的」な味覚の持主だ。これまでフランス料理に触れたことがなくとも、コルドン・ブルーの本を開けば、そこに書かれている料理が「美味しい」と「分かる」。「ジャージー・ボーイズ」が(実際のフォー・シーズンズのメンバーはどうあれ)、楽譜を見てすぐにいい曲と「分かる」のを思い出した。
面白いなと思ったのは、原作通りなんだろうけど、インド人一家の末の女の子の言動。冒頭パパが「うち」の料理の話をすると思い出すだけでたまらないとでもいうように舌なめずりをするが、終盤ハッサンが(インド料理も取り入れて)作った「野菜とワイン」が素のフランス料理は口に入れるなり吐き出してしまう。彼女に「絶対的」な味覚が無いからというのもあるけど、パパがその料理を美味しく味わっていることから、年月を生きることにより「正しさ」に近づき得るのだと思う。「公正」は意思によって作られる。


「二つのレストランの対立」は、体感としては上映時間の半分ほどで解消し「和解」に至る。話はそこから更に進む。手に火傷を負ったハッサンがマロリーに「オムレツを作る」時、彼女の手に自分の手を添えて料理する。子どもの頃、書道の先生にたまに手を添えてもらったものだけど、あれは何と手軽に「私」の中に他者を受け入れることの出来る面白い体験だったろうと思う。原作小説のタイトル「The Hundred-foot Journey」(100歩とは二つの店の間の距離のこと)が示すように、旅とはちょっとしたことで可能なのだ。そしてそれは「和解」よりも一歩踏み込んだ行動だ。
マロリーの経営する「ル・ソル・プルルール」の星を一つ増やしたハッサンは、「有名店からの引きも切らない誘い」の中から「最新」の店を選んで身を投じる。これはおそらく「現時点で行けるところまで行く」ということを意味しており、それゆえ、それを経験した後のハッサンの選択にはそれなりの説得力がある。ちなみにハッサンが表紙を飾る雑誌を見たパパが、記事の写真に「テロリストみたいだ」と冗談を言うが、「下水溝から這い上がった…」という文句には激怒するというのも面白い描写だ。


上映中は笑いに加え、感に堪えない小声も聞こえた。笑いながらの「ひでえな!」というものもあった。「メゾン・ムンバイ」の開店日、お客が全く来ないので、パパは民族衣装を身に付け(家族にも付けさせ)通りへ出て呼び込みをする。散歩中の犬に話しかけ「この犬にいいものをやろう」と飼い主を引きずり込む。ここはカルチャー・ジェネレーションギャップ、パパと「他の全員」との溝を笑う場面だから「ひどい」という反応は「正しい」。私も同じように笑いつつ「でもこういうやり方もあるよね」なんて思うわけだけど、「実際」に引っ張り込まれたら、頭では分かっていても、不快に感じるかもしれない。そんなことに気付いてしまった。やっぱり「旅」が必要かもしれない。