マルガリータで乾杯を!



日本において劇場公開される外国映画を受動的に見ている私としては、最近のこの手のインド映画には「これが一つの『普通』なんだ」と思わされ、惹き付けられる。主人公の「fuck off!」が三度も聞ける(うち一度はサインによる)インド映画なんていいと思う。自身はbitch!と言われるけれど、そちらは愛のこもった、言われてみたい状況なのが映画の優しさか(笑)


なんて気の抜けた邦題だと思ってたけど、ラストシーンで意味が分かりはっとした。さらにその後、すなわち映画の最後に出る原題は「Margarita, with a Straw」…これを「日本的」に訳したのが邦題というわけ。
オープニングは誰も居ないがいつもは人がいるであろう気配の残る屋上、緑色のお茶?をタンブラーに注ぎストローをセットする手、その手の持ち主である一家の母親が車を運転して皆は学校や職場に向かう。車内の家族はてんでの方を向いているが、感じるのは断絶などではなく「普通」。主人公ライラ(カルキ・コーチリン)が大学に到着し、先のストローは彼女のためのものであったと分かる。映画の最後、ライラは店で「ストロー付きのマルガリータ」を頼み、堂々と楽しむようになる。私の母は脚が悪く、勤務先での最後の数年など特に大変だったそうで、体に障害がある状態を長年続けていてもなかなか他人に頼れない、50を過ぎてやっと、出来ないことはさっさと誰かに頼むことができるようになったと言っていた、そのことをふと思い出した。


予告編の前半で強調されていた主人公の失恋のパートは、映画のほんの入り口。そもそも女が男を「かっこいいからと好きになる」こと、更にその思いが破れることを描いた映画というのは少ないので(女は男を性的魅力では好きにならず、また欲望するのではなく欲望される側である、とでも言いたげな映画の方が圧倒的に多いので)その時点でまずいいなと思った。ライラがニマに向かって「anytime」と二度口にする時の顔は、「こういう状況」でしか生じないきらめきに満ちている。
あなただけが特別だと打ち明ける時、ニマはライラを抱きかかえている。それまで何でもなかったのが、その言葉を聞いて重たく感じられる(というのが表情から分かる)彼女もそれを察していたたまれなくなる。ライラが母に「もう大学にいたくない」と言うのは、「たかが振られたから」じゃない、彼女が「自分を受け入れていない」ことの表れだ。それは冒頭に描かれる「日常」の中の、エレベーターの故障時に階段を運んでもらっている時の表情や、クラウドに上げる写真を編集する姿などから分かる。


「女性」で「障害者」である主人公の「普通」を描いているこの映画は、冒頭の「日常」描写において彼女のオナニーを見せる(「ベッドシーン」や「トイレシーン」よりもこのシーンにつき、インドでよく検閲を通ったなと思うけど、ああいう表現ならいいのだろうか?)ちなみに私からするとああいうのでするんだ、と思うけど、それは彼女が「音」に敏感だからという意味もあるんだろうか?
ライラは幼馴染を誘って性的行為をし、パートナーを得た後に「浮気」もする。世の中の「主」じゃない側の人間も(そういう「人種」には無いものとされがちな)性欲でもって他人を傷つける可能性がある、ということが描かれているという点でも素晴らしいと思った。「何も考えてなかった」「魔が差した」だなんて「陳腐」な言葉も、これまで聞かされる側だった人種が口にするなら大いに意味がある。勿論、彼女だって周囲に振り回される。人々の「交錯」や「亀裂から見えるそれぞれの事情」を、映画は優しく見つめる。「皆がインド人だと思ってる?」「インドじゃキスをしたら結婚なの?」


ライラは始め、その日の服装に使われている内の一色と同じ色のゴムで髪を束ねている。ハヌムとの「ベッドシーン」に至り、あれっ今日は相手の側の服と下着の色(真っ赤!)と同じだなと思っていたら、それ以降は自身の服装との一致が少なくなっていく。これはライラが母親から「自立」していく過程を表しているのだろうか?
ちなみにこの「ベッドシーン」では、横たわったライラの背中の感触が伝わってくるようだった。セックスした時の背中の感じって結構覚えているものだ。またライラとハヌムが名前を教え合う際、ハヌムがライラの手をちょっと揉むのが印象的だったものだけど、この映画には「手足による触れ合い」が多く出てくる。インドに帰った際に幼馴染にとある「告白」をするのが、三人で並んで足裏マッサージを受けながらというのも面白い、ああいう時にああいうことを話すというのはどういう感じだろうと想像した。