ローラン・ラフィット出演作

「スクールズ・アウト」(感想は下に)を機に、ローラン・ラフィット出演作で未見のものをまとめて見てみた。


▼「アンタッチャブルズ」(De l'autre cote du periph/2012年/ダヴィッド・シャロン監督)は「最強のふたり」翌年のオマール・シーとのいわゆる凸凹警官バディもの。「ビバリーヒルズ・コップ」のテーマを着メロにしているウスマン(シー)とベルモンドの「プロフェッショナル」(私は見たことなし)に憧れポスターを貼っているフランソワ(ラフィット)がほぼ対立しっぱなしでクライマックスを迎える。

二人の衝突は郊外のボビニーとパリのそれである。しかし前者でシングルファーザーとして子育てにも勤しむウスマンが、おれは生まれも育ちもこの町だ、おれはこの町の風景だ、と思っているのに周囲からは「サツだとバレバレ」なのがちょっと面白い。後者については、パリ警視庁の「殺人課」のオフィスが意外と地味だというのが、本当なんじゃないかと心に残った。

Netflixで配信されるマーロン・ウェイアンズ作品などが最たる例だけど、日本で劇場公開されたか否かに関わらず、見ていて実にある属性の人達のための映画だなと思う作品があるもので、これもその類。フランスに生きる人達、更に言うならその中のマジョリティを楽しませる映画だと思う。ネタが分からないとかつまらないとかいう意味ではなく、ある種のすがすがしさを感じる。とはいえ人種差別や市民のデモがさらりと話に組み込まれているのは劇場で見るフランス映画と変わりないけれども。


▼「麗しき日々」(Les beaux jours/2013年/マリオン・ヴェルヌー監督)は髪をブロンドに染めたファニー・アルダンが老眼鏡を掛けて携帯電話のメッセージを読む(声がかぶる)のに強烈な「フランス映画」の匂いが。変な言い方だけど、フランス映画で見慣れたこのような状況にはこのような含蓄もあり得るんだ、ということを色々思わせられる映画だった。

「私の娘の歳は32と34、あなたは?」「ぼくには子どもはいない」から、カロリーヌ(アルダン)の娘と同年代のジュリアン(ラフィット)が彼女を自分と同じ場所に置いて見ていることが分かる。女をとっかえひっかえしていようと公正なやつだということが、作中のセリフの数々から分かる。しかし中盤の「いつも女の方が先に飽きる」が最後に「ほらね」となるのには、個人がどれだけ公正でも社会の中では位置がずれることがあるということの表れのようにも思われた。

老人向け施設「輝かしい日々(原題)」の面々が水着で、あるいは裸で海に入ってはしゃぐ姿に終わることから、作り手がこの映画に込めたメッセージが伝わってくる。それにしてもカロリーヌが娘から贈られたクラブ入会体験をジュリアンとの情事と重ねて「体験は終わった」と言うのはあまりに洒落ている…「洒落た」なんて普段使わないけれど、そういう言葉を引っ張り出してこないと語れないような映画なんである。


▼「スクールズ・アウト」(L'heure de la Sortie/2018年/セバスチャン・マルニエ監督)はシッチェス映画祭ファンタスティック・セレクションの一本として上映されていたのを、エマニュエル・ベルコにも惹かれつつ逃していたのでレンタル。しかし私好みの映画ではなかった、大きなもの(この場合、子ども)を置いておきながらその中に確固たるものを詰めない作品はあまり好きではない。

「今度の前任教師は一体どうしたんだ、癌か、鬱か」という現友人の言葉でピエール(ラフィット)が代用教員であると分かる。システムからこぼれ落ちた者の穴を埋めるのが代用教員だと言う、この定義が面白い。前の者と同じ道を辿るのも道理なら全ては当人の資質によるのだから全く違う道をゆくのも道理、彼の場合はどうなるだろうと思いながら見た。

クラス内の「とくにむかつく6人」が「将来就きたい職業」に答えた内容はあながち嘘ではないと思う。それならば、うちのクラスは授業が進んでる、先生はちゃんとやれるのか、といった態度は何なのか、それはアポリーヌが言う通り「時間を無駄にしたくない」一心のように私には思われた。だから名札なんてものを作るし、罵りは無視するのだ。あの学校(の「モデル学級」)もまたあの町の工場の一つであり、6人は傷つける側として罰を受けているとも傷つく側として未来に備えているとも言えよう。