ジャコメッティ 最後の肖像




「『寒い国から帰ってきたスパイ』ってどういう話なんですか」
「寒い国から帰ってきたスパイについての話なんだ」


スクリーンに大きく出る「Paris, 1964」に続く、自分の大きなサインの元でジャコメッティジェフリー・ラッシュ)が一人思い悩むように腰掛けている部屋を、彼の絵を見る人々から一人離れたジェイムズ(アーミー・ハマー)が覗き込むという映像が、その後の物語を表していた。「どうせ見たままには描けない、不可能だ」と言いながら、不可能に向かう行為をし続けることでしか生きられない男(それを妻のアネット(シルビー・テステュー)は「彼自身が一番止められない」と言う)を、友の起こす「風」が救う。


ジャコメッティが、ジェイムズが「彼のobsession」と表現する娼婦のカロリーヌ(クレマンス・ポエジー)に入れあげるのも、彼女が金目当てで関係が安定しないからである(それを弟のディエゴ(トニー・シャルーブ)は「苦悩の最中しか幸福を感じられない」と表現する)。これは「昔は毎晩、寝る前に想像の中で女を暴行してから殺していた、それでよく眠れた」ほど女嫌いの男が、同性愛者の男にそれを告白し、女を殺し続けても自分は救われないと悟る(らしき)話でもある。その後にジャコメッティの見る、戸口までやって来て去るカロリーヌの幻が、彼が自覚したという表れであるならば。そもそも生き辛さを感じる男の多くがなぜ女嫌いに陥るのか、想像の中で自分が死ねよと思わずにはいられないけれども。


「木になりたいと思わないか」と語るジャコメッティに、死、正確には死ぬという行為、より正確には耳から耳を掻き切ったり火に巻かれたりの激しく死ぬという行為に惹かれることを告げられたジェイムズは、セッション中に「モデル」として腰掛けている椅子から立ち上がって働き掛けることを決める。そこからの、「私が欲しいのは変化の風、でも自分じゃ起こせない」との歌に乗り、アパートメントの中のあらゆる領域を(カロリーヌ以外の)皆が軽やかに行き来するあのくだり、風の吹く予感に満ちたあのくだりが、この映画の白眉だ。


その「風」は些細なものだ。ほんの切っ掛け。それがこの映画の最も面白い点である。ジャコメッティ自身も「簡単に描いても誰かに誉められれば筆を置ける」と言うが、それなんである。「シャガール!」「天井画!」と吐き捨てる彼がその披露パーティに行かないのは、自分がそれを(自分のせいで)得られないからであり、翌日の夫婦が円満なのは、そのことを理解している妻が、彼が「木を初めて見た」気持ちになれるよう癒したからである。


カロリーヌの「ポン引き」がジャコメッティの「モデル代の方を『ヤル』代より高くする」という申し出に渋り、前金までもらっても苦虫を噛み潰したような顔をしている描写も面白い。つまり人は、いや、この映画に出てくる人々は、自分のしていることの価値を何かによってはっきりさせたいのだ。この感想文の始めに置いたジェイムズとディエゴの会話に際し「新しい本を読んでいる」「僕のかな」「いや違う」と返されてしょげるジェイムズだってそう、それが彼の仕事だからである。


冒頭ジェイムズが扉を開けて足を踏み入れる中庭、それに面した寝室と庭、アトリエと庭を隔てる曇りガラスは「芸術家」とそうでない者との境界のようだ。その向こうに入ったジェイムズとジャコメッティの間には更に、作り手の方を見る「くそな彫像」とカンバスがある。ジェイムズが描き掛けの肖像画をアトリエの曇りガラスの外、つまり自分の側に引き出して記録写真を撮ることにつき、ジャコメッティが「何をしてるんだ」と不思議かつ苛立たしげに言うのも面白い。始めはそうだが、「風」の予感のあたりではもう、言わないのだ。