トランセンデンス



公開二日目、TOHOシネマズ渋谷にて観賞。
そんなこと初めてなんだけど、土曜日の夜、「『トランセンデンス』を見て」と誰かに言われる夢を見た。だからというわけじゃないけど、記録を少々。


まずはいきなりのルーカス・ハースにびっくり。直近の「スティーブ・ジョブズ」然り、インパクトも無い脇役ばかりだけど劇場でコンスタントに会える役者の常連となっている。もっとも本作のような「大作におけるちょい役」なら、「リンカーン」の冒頭でああいうふうに彼を使ったスピルバーグはやはりセンスがいいなあと思う(「世にも不思議なアメージング・ストーリー」以来の長いつきあいあってのこと?)
他にもご贔屓役者が勢?揃い。ポール・ベタニーの語りを堪能、キリアン・マーフィーは出場時間の5分の1程はサングラス掛けてるのが(瞳が見えず)勿体無かった(笑)


世界初の人工知能を開発した夫婦のラブストーリー。冒頭、エヴリン(レベッカ・ホール)が病床のウィル(ジョニー・デップ)の手を取るカットのあまりの短さにがっかりして、なんだこのつまらない映画は、と思いながら見てたんだけど、エヴリンが「彼」に包まれてソファのクッションに頭を乗せる場面にぐっときて、そこから引き込まれた。このへぼロマンチック具合、好きだな。「どこかで見たことのあるような」筋書き、場面が多かったけど、私は一番に「キララのキ」を思い出した。
それにしても、コンピュータにおける「自我」とは何なのか、今回もよく分からなかった。加えて、「自我」について問われたコンピュータが同じ言葉を返してくるというのは、単にあれがかの人の「ユーモア」なのか、それとも「自我」が無いことを表してるのか?


「行かないでくれ、お願いだ」という「気持ち」を、あらかじめ用意された言葉でしか表せず、その後にその気持ちを代弁する「かのような」雨を降らせる、そんな「彼」は、誰かの欲望の反映という点も含めて、スクリーンから出られない「映画」のようだ。「彼」と彼女は、「映画」と私。エンディングで歌が流れると、まるで「映画」に語りかけられているかのように感じた。