ザ・ウォーター・ウォー



「お前はここで何をしてる?」


ザ・ウォーター・ウォー [DVD]

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ボリビアコチャバンバ。警備員付きでやってきた映画クルーが告知したエキストラ募集に集まった、現地の人々の長い列。全員の面接は無理だと追い返そうとするクルーに向かって声をあげる男が居た。仲間のために率先して行動する彼を、プロデューサーのコスタ(ルイス・トサル)は「トラブルメーカーだ」と敬遠するが、監督のセバスチャン(ガエル・ガルシア・ベルナル)は同情と、首長役にぴったりだという思いから、面接を行い彼、ダニエルを採用する。


本作はいわゆる「映画もの」である。ホテルの庭での「読み合わせ」において、コロンブス役の俳優が酔って「演技」に入る場面から、映画ものの醍醐味が味わえる。尤も現地のスタッフを「先住民」に見立てて恫喝するとなるとゲスさに辟易する。「演技」であっても、それと知らない相手を怖れさせるなんて。
しかし本作の「映画もの」としての面白さは、そういうところに留まらない。第一に、映画内映画の中で搾取され罰を受け、抵抗し、追われるエキストラの人々は、「現実」にも同じような状況にある。政府がアメリカの企業に水道事業を売り渡したことから水の値段が高騰、自ら掘った井戸もつぶされた彼らは暴動を起こす。首長役として「我らの両国王をお前達の統治者として認めよ」と言われたダニエルが、仲間の後ろから静かに見返す姿に、その心を思う。
第二に、映画内映画を「撮影シーン」として映さないので、並行して二つの映画を観ているような気にさせられる(映画内映画も作中のシーンだけでおよその内容が分かる)。映画内映画のクライマックスで火あぶりにされた首長役のダニエルを捕らえようとやってきたパトカーが、先住民(の格好をしたエキストラ達)に倒される場面では、フィクションと現実、更に二つの映画が混じり合って高揚する。セバスチャンが「今のは現実か?」と言うのもさもありなん。


冒頭、エキストラの列の上の雲の垂れた空を、ヒャッホーと十字架を運んでくるヘリコプター。それはかつての支配、それが今も行われていること(彼らは勿論コロンブスが出会った先住民ではないが、コスタいわく「先住民なら何だって同じ」)、また「映画」、大国からやってきた「映画」による蹂躙の象徴のように思われる。エキストラには日に2ドルもやっておけば大喜びだとコスタが電話で面白おかしく喋るのを聞いたダニエルは、「あんたまでもか」と言う。
「追手の放った犬から逃げる先住民達」という台本の部分を読んで涙を溜めていたセバスチャンが、次の場面でそれに続く「(犬から逃げるため)赤ん坊を水に沈める」というシーンを撮るのに「君達はこういうふうに考えてこういうふうに動くんだ、これは実話だからな」と言い放つ、ここにも映画というものの傲慢さが表れている(結局ダニエルに皆の代表として「映画より大切なこともある」と断られる)。彼は終盤「紛争は終わって忘れられるが、僕らの映画は永遠に残る」とまで言ってのける。自身が本を見つけ脚本を書いたようだし、実際に仕事に就いていたら、そういう気持ちになるのかもしれない。


それでは映画の作り手の誠実さとでもいうものはどこにあるのか?暴動のニュース映像に恐れをなし「帰らせてくれ」と言う役者に対し、コロンブス役の俳優は「(お前の演じる)ラス・カサス神父ならそんなことはしない」、すなわち映画のテーマに沿った言動を取るべきだと言う。続けて「協力してくれた人達のためにも完成させなくては」。プロデューサーであるコスタも「なんとしても映画を完成させる」と断言する。映画を作る者はとにかく映画を作り上げなくてはならない。
冒頭、長蛇の列に真摯に対応しようとしたセバスチャンが、ダニエルが顔に傷を付けたと知るや激怒し暴動への参加をやめるよう強制する。一方、金を手段の全てとしていたコスタは、ダニエルに5000ドルを渡し「(この金で)劣悪な環境から抜け出せ」と言うが(この時ダニエルと妻がしっかと顔を上げるのは、雇い主に対してめったなことでは物言わぬ彼らの大きな「主張」だ)、やがて「そのままではおれない」ようになり、渦中に飛び込んだ後には自分と相手との居場所を認識して「もう俺は戻らない」と言い切る。
彼らのみならず葛藤する映画の作り手達の様子を面白く思うと同時に、こんなことまでして映画って、撮らなきゃならないものだろうか?と思う。それでも映画が撮られるなら、観る私はどうすればいいのか。


「(スペイン語じゃなく)英語で撮影すれば二倍の予算が取れたのに」というセリフに、そっか、そういう都合なのかと気付く。そういう映画がダメってわけじゃ全然ないけど、大きいものはますます大きくなるものだ。