顔たち、ところどころ



幕開けはアニエス・ヴァルダとJRが「道で出会わない」場面。ヴァルダやドゥミの映画は道の使い方が楽しいものが多いから、おお、映画が始まったと思う。「道で出会わない、バス停で出会わない、パン屋で出会わない」と言い立ての映像化のような冒頭に引き込まれる。


全編を通じてJRが役者として実に貢献しておりキュートだ。ヴァルダが「糊付け職人」と言うように、「カメラマンといっても毎日足場を上ったり下りたり」と言う彼には肉体を使う人の力強さと優美さがある。目を見せない彼の、ル・アーヴルでのコンテナからコンテナへのジャンプ、「はなればなれに」の「記録を抜く」ジャンプ、ヴァルダの思い出の浜辺での跳躍、どれにも目を奪われる。


警官に「絵を貼るのは構わないが足場が公道にある」と言われたJRが「罰金はアニエスに、賞賛は僕に」と返すと相手も笑ってその場が終わるのが、私にはなぜだか何ともヌーヴェルバーグらしく思われた。ヴァルダの「いつもは工場の人達が映画館へ行くが今日は映画人が工場へ」、「(どうして最期が楽しみかって?)最期だから」なんて物言いも。思考の身軽さの発露とでも言おうか。


大きな顔写真を貼って見せることで人を「元気づける」ことが出来る(出来るのだ、確実に、と伝わってくる)んだから面白い。ヴァルダの目と足先の写真を貼った列車がゆく時、JRは質問に答えて「(僕らがするのは)想像力を引っ張り出すこと」と言うが、それらは地続きなのか。


JRいわく「僕の作品は長くはもたない」。人は自分を探しながら映画を見るから、私も自分の探しているものの数々をここに見た。子どもの頃から町に貼られた「まま」の誰かの写真を見ると悲しい気持ちになっていた理由、「(写真じゃないけど)肖像画の出てくる映画」を集めていた理由。


ヴァルダが肩に乗せているのを始め頻繁に猫が登場するが、全くもって「猫映画」ではない。あまりに馴染みすぎており映画から猫が立ち上がってこない…ということはこれは「猫のような性質を持つ映画」なのだろうか。対して一場面だけ出てくる犬の方は目立っていた。よくあんな「表情」が撮れたものだ(笑)