バルコニー映画


ポーランド映画祭にて観賞、2021年パベェウ・ウォジンスキ監督作品。コロナ禍の2年あまりワルシャワ自宅のバルコニーから人々を撮影した映画というので大好きな『ダゲール街の人々』(アニエス・ヴァルダ1975)を連想していたんだけど、全く違っていた。いや、似たようなことを色々な立場の人が行うと世界の構造が明らかになると改めて分かった。

映画が始まって数分で、監督がいかに選択肢に恵まれているかが伝わってくる。作中初めて声をかけた女性いわく「私はポーランド人じゃないし156番のバスに乗らなきゃいけない」。自分が「ターゲットではない」と考えるおそらく仕事でバスを使う者に対し(後に登場する年嵩の女性は「車がない人生なんて」と話す)、監督は「ポーランド人」であり出かけずに済む立場だと分かる。娘は友達に電話口で「パパは一日中バルコニーで撮影してる」、買い物帰りで両手に荷物の妻は「私は家事で大変なのに」。「移民にノー」デモを撮影できるのもポーランド人男性だからなんだろう(か?)。

監督は刑務所を出たばかりの男性の求職のために服を貸す。終盤彼はあなたが羨ましい、愛されてて家もある、家族に犬までいると言う。この素材はここで切られ監督が何か答えたのか否かは分からない。私にはこれは、マジョリティが世界にどんな態度を取ればいいのかを記した、いやどんな態度を取ればいいのか分からず戸惑うさまを記した作品のように見えた。日本で外国人に対する仕事をしている自分を振り返り、質問の内容などもっと考えなきゃ、加えてもっと質問されなきゃいけないと思った。

とりわけ「ドキュメンタリー」に今や誰もが強く感じているはずの、撮影する側の権力の大きさも伝わってくる。映画はカメラの位置をよいしょとばかりに固定するのに始まるが、時に誰かが下に来る前から、あるいは過ぎた後まで追うものだから、そうだよな、「次第」だよなと痛感する。半固定とでも言うこのスタイルが、話の内容だってどうなることかと思わせる。話しかける監督の顔を誰かが大きな鏡で映し返してくれないかなと思っていたら、それを見越したようにカメラを直す自身の顔をちらりと入れる。

中には撮影を「対話、コミュニケーション」と捉える女性もおり、あなたのように聞き出してくれる人となら私も話ができると喜び、次に通る際には遠くから手を振ってくれる。あの手の動きの美しさは目に焼き付いた。