シェヘラザードの日記/ラシーダ

イスラーム映画祭6にて観賞。


▼「シェヘラザードの日記」(2013年レバノン、ゼイナ・ダッカーシュ監督)はドラマセラピーに参加する女性囚たちを描いたドキュメンタリー。

よいドキュメンタリーの多くが「『今』はどうなっているのか」と考えさせるものだけど、本作も見ている最中から既にそのことで頭が占められる。映画の終わりに出る「2014年にDV防止法が可決された」との文章にそれでも、と(日本でのあれこれを鑑みて)悪い方に想像をめぐらせていたら、購入した冊子に「結果的に夫婦間レイプを合法化するものとなる」とあった。

少女更生施設の内部を捉えた「少女は夜明けに夢をみる」(2016年イラン)はメヘルダード・オスコウイ監督の指紋に始まり(入所する少女が指紋を採取されるのに倣ったのだと私は受け取った)撮影者と被撮影者の関係ややりとりが収められていたものだけど、このドキュメンタリーでもセラピーを行っている監督自身が作品の内部にある。これは大事なことだろう。

「子どもの頃、窓際に立っていると父親に殴られた」と語る女性と、窓から外を見て海に焦がれる劇の中の「シェヘラザード」は表裏一体。女性は外から見られるだけの存在で、その内は一切思いやられないということだ。



▼「ラシーダ」(2002年アルジェリア=フランス、ヤミーナ・バシール=シューイフ監督)はアルジェリア内戦時に小学校の教員として働くラシーダを描いた物語。アルジェリア初の女性監督の作品だそう。

終盤「こんな地獄にいることはない、車で送ってあげよう」と声を掛けられたある女性が「地獄は心の中にある」と返す。窓を開けて、二重扉や塀の外に出て、扇風機じゃない本物の風を受けても、足元はどこまでいっても地獄。だから子どもたちは空を、月を見上げるのだろう。ラストカットでこちらを見据えるラシーダは世界にそれを訴えているのだ。

冒頭ラシーダが口紅を塗っているのは勤務先の小学校で学級写真を撮るため。ヒジャブを決して被らない彼女に対し被った同僚は写真を禁じられているからと参加しないが、二人は仲良く音楽を分け合って聞く。このオープニングに引き込まれた。ちなみにこの映画では音楽の使われ方も印象的で、私の耳の具合か奇妙な変拍子(上手く言えないけど単なる変拍子じゃないという意味)に聞こえた導入の後はずっと、自由の象徴…というのはきれいすぎる言い方だな、安全域とでもいうような役割を果たしている。

冒頭の舞台であるアルジェならではのロープウェイでの通学、断水、石を手に近所を守ると一人で立っている陽気な若者。地方の子供たちの「アルジェは本当に白い町なの」へのラシーダの答えが映画の答えである。加えて仕事がなくその辺にたむろしている男達に通りすがりに目をつけられたり仕事でも男の校長に嫌がらせに近いことをされたりと、内戦に関係なく女にとって世界はいつもひりひりしているということが描かれているのも、意識的なのか分からないけれど心に残った。