イスラーム映画祭6にて観賞。
▼「孤島の葬列」(2015年タイ、ピムパカー・トーウィラ監督)はムスリムの姉弟とその友人が深南部に暮らす伯母を訪ねるために旅をする話。
「伯母さんは優しい人だった」「父さんは虎より怖いと言っていた」という姉ライラーと弟グーの会話にそれは「どういうこと」なのか考えながら見ていたら、最後に意味が分かる。ライラーが宿から電話で父親に行き先の住所を聞くのも変なら、友人トーイの怯えように対する「何」もなさ(不穏なのは彼らが後にしたバンコクのニュースの方なのだ)、迷っているのか迷っていないのか分からない道のり、全てが奇妙といえば奇妙だが、こんなロードムービーがあって然るべきじゃないかと思えてくる。
オープニングより三人が足を止める度にゆったり巡るように彼らを捉えるカメラは、私には見守っているかのように感じられた。それが島に渡るあたりから三人に寄り添い、一緒に参道をゆくかのようになる。その印象は当たっていたとも間違っていたとも言える。つまり、あらゆる宗教が存在する場所こそ最も宗教的ではないということだ。父親が恐れていたのはそれなのだと思った。これは「宗教」を他に替えても通用するし、敷衍すればどの国の人にだってある感情だろう、例えば日本なら選択的夫婦別氏制度への反対など。私にもあるだろう、渦中にいるから自分で見えないだけで。
▼「ミナは歩いてゆく」(2015年アフガニスタン=カナダ、ユセフ・バラキ監督)は学校に通いながら一家を支える少女ミナの物語。
序盤、学校で女友達が「昨日はおじいちゃんとおばあちゃんが夜中の2時までいたから宿題はその後にした」などと話しているが、ミナが家で勉強する場面はない。死んだように寝ているかある晩には涙を浮かべているか、あるいは食事の支度や客のもてなしなどで動き回っているか。幼い彼女が祖父と父の命をしょっている。オープニング、井戸で水を汲んだ後にヒジャブで顔を拭く。水ですすぐよりごしごしこする時間の方が長い。そこに布がぶらさがっていれば使うだろう。これが最後に繋がるように思われた。「テロ」「ブルカ」といったものらを、生きるための手立てにするしかない者がいるということ。
作中二度、川が映る。一度目は従兄弟と洗車の仕事中の物売り仲間の背後に雨の後なのか大変激しい流れが見える。ミナの他にも多くこうした少年少女、若者がいることが露わになり、その日を生きるしかない切迫感が水流に重なる。二度目は止まっているかのように穏やかだが、その時ミナはある決意をしている。麻薬中毒の父親に彼女は幾度も理路整然と反論する。「学校なんて飯の種にならない」「それじゃあ(学校に行っていない)お父さんは?」など、子どもでもああしたことは考えられると確かに思う。年老いた男性に自分を売り飛ばした父親に対する最後の言葉が「薬をやらないまともなお父さんとなら、私が働いて稼いで生活するんでもよかった」というのが悲しく、それが本当に、監督が思う最後の一線なんだと思う。