キアラへ


イタリア映画祭2022にて観賞、ジョナス・カルピニャーノ脚本監督2021年作。

冒頭キアラ(スワミー・ロートロ)を含む姉妹三人がソファで父親と何とはなしにふざける場面に、「チャンブラにて」(2017)にも少年ピオの、振り返ると多分生涯最後だったであろう、母親に甘える場面があったなと思う(クレジットによると演じているのも同様に実の親子のようだ)。尤もキアラには食い扶持を稼がねばとの心労はなく、走っても走ってもどこへも移動しないジムの帰りの階段を一段抜かしで上る後ろ姿はエネルギーを持て余しているかのようだ。姉のように18ではまだないが、それでも15歳である。世界を見尽くして飲み込む覚悟でもありそうな目をしている。

パーティ帰りのタバコを従兄弟に見つかり一週間以内に父親に言えよと責められる場面、「あんただって吸ってた」「おれは男だけどお前は女だ」「そういうことじゃん」とのやりとりにジェンダーの問題という感じがなく違和感を覚えていたら、程なく父親がマフィアであると(彼女と私に)明かされる。マフィアの子がタバコはだめだなんておかしなものだが要するにそういう世界なのである。大人は悪事をするが(彼らはそれを「生存」と呼ぶ)子どもは知ることも許されない、ただし長じればその組織、共同体の一員となるよう決められている。後に父親が自分の仕事を見せる前に彼女にタバコを勧めるのが分かりやすい小道具の使い方だった。

序盤より見覚えのある顔とキアラとの関わりに分かってはいたけれど、父親を探してチャンブラを訪れる場面で、これが前二作でブルキナファソから来たアイヴァやロマのピオなどに「イタリア人」と呼ばれていた側の話であるということがはっきりする。キアラがロマのグループを襲って鬱憤を晴らすのに、「地中海」(2015)で自分より「下」の人間のいないアイヴァはネズミを傷つけていたものだと思い返す。大人と子どもの狭間にある者が惑いながら自分で道を選択する(結末は授業の単元が示唆している)という点は「チャンブラにて」と同じだが、国のシステムが届いているキアラには教育現場の大人が言うように「とんでもなく幸運」にも悪から抜け出す選択肢がある。それでも彼女は鏡の中に自身のルーツを見るのだった、おそらくこれからも。