マイ・ニューヨーク・ダイアリー


話はジョアンナ(マーガレット・クアリー)の親友ジェニーが職場に導入された電子メールの使い方の馬鹿らしさを愚痴るのに始まるが、改めてこれが「インターネット」以前の物語であることを面白く感じた。誰かの書いたものには力があり、それは誰かに届く、届いてしまうということが描かれていたから。1994年にはそれは今ほど「日常」じゃなかったから。ボスのマーガレット(シガニー・ウィーバー)に「判断じゃなく共感してる」と戒められるジョアンナはサリンジャーへのファンレターに心を掴まれ返答したくなり、「静かな感情がある」の彼など自分の傍で語り掛けてくるように、作家に並ぶ存在であるように思うのだった。このあたりの描写、また冒頭一度だけのもしかしたら「真実」との差異の妙がフィリップ・ファラルドーらしく素晴らしい。

恋人ドン(ダグラス・ブース)に「男は女を品定めするものだ」などと言われたばかりのジョアンナにとって、彼が書いた小説「道連れ」(原作のセリフによれば「党員ではない社会党の支持者のこと」)も自分へのメッセージであり、入れる赤は言い返せない言葉である(この小説の扱いは原作と映画とで少々異なる)。元恋人のカールは「怒りにまかせて」手紙を認めたことを後悔するが彼女はそもそもその内容を受け取ってもおらず音信不通を貫くので、彼は彼女に言葉ではなく音楽を聞かせようとする。映画のオープニングは一年間ジョアンナが外に出さずにいた、あるいは自分でも意識していなかった本音だが、彼女は男性達に対しても同様に閉じていたのだ。

共に作家を目指していたジェニーから婚約者について郊外に引っ越すと告白された後、寄る辺のなくなったジョアンナは私はニューヨークの人間なのだとばかりに、ボスの行きつけだが自身は足を踏み入れたことのないウォルドルフ=アストリアへ出向いてチーズケーキをつつく。過剰にアレンジされたムーンリバー、手紙を書く女性、ニューヨーカーを読む男性、自分の居場所ではないようだったけれど、終盤自身の進むべき方向を決め今こそサリンジャーを読んだとき再び訪れると、皆が踊り出す、「ずっと友達」のカールもやってきて自分も踊り出す(ように感じる)。自分を持っていれば、ニューヨークのどこだって自分のものになる。

原作小説「サリンジャーと過ごした日々」はAll of Us Girlsという章に始まる。映画のナレーションにもあったけど、これは無難だと考え出版業界に入るが作家志望だなんておくびにも出すことはない「ニューヨークに何百何千といる女の子」の物語である。その進路は間違いなわけだけど始めは分からず、職場の皆に愛情を覚えたり仕事を面白く感じたりする。そんなこと、そりゃあ、あるだろう。間違ってると気付いたら軌道修正すればいい。ジョアンナが花とスープを手にマーガレットの部屋を訪ねる場面では、自分の進路が見えてきた前者とそれをうっすら察しているであろう後者の心と心が、変な言い方だけど温かい拮抗をしているように見えて、胸がしめつけられた。