ルーム



公開初日に出向いたところ、「キャロル」と似た事態になってしまった。映画化のニュースに初めて知った原作小説を興味を持って読み、楽しみに臨んだところ、見ている間中、原作と比べるはめになってしまった(尤もこちらの原作は「キャロル」のように素晴らしい小説だと思ったわけではないけれど/そんなわけで以下、そういう視点での感想です)


原作「部屋」には、「言葉なら何でも知っている」が「世界」を知らない人間が、その体験を「言葉」で表現するという「哲学的」な面白さ(といってもそこまで綿密なわけじゃないから、「言葉」を知っていても「世界」を知らなければ「哲学的」にはなり得ないのだろうかと思わせられるのが面白い、とも言える)と、監禁被害者の少女と監禁中に産まれた加害者との子が「外」へ出てからの体験の切実さとが在る。だからこそこの小説は「特別」なわけだけど、そもそも私にとってはこの二つの「食い合わせ」がそういいと思えなかった。なんというか、前者の内容の独自性が高いほど、後者の内容(監禁)の「コンテンツ性」をどうしたって感じてしまうというか、大袈裟に言うと、物語を作る力をこういうふうに使うのは好きじゃないと思ってしまうというか。


原作を読んで面白く感じた「(5歳のジャックが書いているという体裁の)表現方法」については、映画は言葉で紡がれるわけじゃないから、ほぼカットされていた。例えば原作では、ジャックは「外」のものをカッコ無しで表現する。自分達の部屋の床は「『床』」で、「外」の床はただの「床」。これは私の感覚とは逆で、そういうところが面白かった。映画では病院のベッドから立ち上がって歩き出す場面の映像でそれに近い「感じ」を表してたけど、やはり少々物足りなかった。また、脚本を作者が手掛けたそうで、物語における「出来事」は実にバランスよく配置されていたけれど、「小道具」や「セリフ」の取捨選択は私の好みと違っていた(例えば冒頭から口の端に上る「じゅうたん」の使い方など)


私にとってこの映画が、言葉で無いなら何で紡がれていたかというと、監禁被害者のジョイを演じるブリー・ラーソンだった。原作ではジョイについてはジャックの言葉でしか表現されないので、「脱出」後のパートでは、わざとらしく感じられた程に、その怒りや悲しみがセリフでもって書かれていたけれど、映像でなら、オープニングのジャックの「五歳になったよ」へのラーソンの表情一つで、その心を表すことができる。冒頭の「ママとジャックの一日」からは、生殺与奪の権とでもいうものを握っている人間が感じるであろう、いや感じねばならない恐怖が伝わってきた。そして、彼女自身がまだ「子ども」であることも。


気になったのは「インタビュー」のくだり。映画ではまるで後の展開のための布石だったけれど、原作では、ジョイの気持ちを「言葉で」はっきりと表すために、聞き手が「世界」を代表して「悪役」になっていたという感じだった。何せいきなりストックホルム症候群の話から入るんだから。弁護士の「あの男に人生最良の七年を奪われたわけですから」に彼女が「どうして最良って言えるんですか?」と返す(相手は「いや、だって、19歳だったわけでしょう?」と答える)など、原作では随所に見られた、自分達を見る目への苛立ちを表すやりとりが少ないのも残念だった。尺の問題があるとはいえ、そういう類のセリフはもう少し欲しかった。さすがにラーソンの顔付きだけではそこまで踏み込めまい。