カーブルの孤児院


中央アジア今昔映画祭にて観賞。2019年デンマーク-ドイツ-フランス-ルクセンブルク-アフガニスタン制作、シャフルバヌ・サダト脚本監督。これはよかった。舞台は1989年のアフガニスタン、政治が最も表れる場所である学校。

冒頭、正義のヒーローが悪を蹴散らすインド映画を瞳を潤ませ見ている少年クドラット。大盛況の映画館から出るとチケットを何枚も買いダフ屋として稼ぐ。正規の10倍の値段に、それを買えるお金を持っているであろう中年男性が「きみは金の価値を知っているのか」と抗議するのには、ジョナス・カルピニャーノの「地中海」(2015年イタリア)における、酒瓶を盗む少年ピオとそれを咎める大人のやりとりを思い出した。

キラキラの「美女」が歌う映画の流れる場内は男ばかりだったのが、クドラットが入れられた孤児院の学校では男女共学。作中初めて登場する女性である副校長は先のスターと変わらぬ「美女」だが、彼に対して「字は癖があるし、算数もできないなんて」と言う、これが現実の女性である。それでも女性に憧れる少年達は女性教員に性的な関心を持ち続ける。後にアフガニスタンイスラム国家となると、彼女を始め女性職員は皆ヒジャブのような布を着けることとなる。

ここには「男の子の欲しいもの」が色々描かれているが、同じ男の子でも個人によってそれに対する態度は異なる(当たり前!)。孤児院内のボスである少年とその親友の、布団を干してあるバルコニーでのやりとり「売春宿を作ったらお前の名前と顔でやれよ」には結構な含みさえ感じる(ゆえに終盤、ボスの彼がスタッフに問い詰められている際に親友が逃げようとする一見薄情な態度が効く)。あるいは事故を起こした戦車に全員で駆け寄った時に盗んだ銃弾への思い。モスクワでのキャンプでチェスとコンピュータに触れる場面には、色々な種類の機会に恵まれるほど他者との差異が発露するものだと考えた。

作中ではクドラットの思いが映画のシーンとして表現される。序盤で同じクラスの女の子と目が合うと場面変わって彼の夢がミュージカルとして挿入される。これこそ他愛ないが、とある死の後の少年二人の「死が二人を分かつまで、おれたちは二人で一人」の悲痛、そして映画の終わりの別の死、いや殺人の前での決して実現し得ない願望の衝撃。私がヒーロー映画に興味がないのは恵まれた暮らしをしているからというのもある、と思わせる(ある意味では私だってサバイバーであるわけだけども)。