夜明けの祈り




「あなたは規律を破りました
 これが初めてじゃない
 前回も許しました、今回も許します、八日間祈り続けなさい」


映画は邦題の「夜明けの祈り」に始まる(原題は「Les innocentes」)。以降、作中何度も夜明けの祈りが描かれ、医師マチルド(ルー・ドゥ・ラージュ)が初めてそれを見る場面では私も改めて、初めて見るかのような気持ちになる。映画の終わりには祈りのない夜明けも訪れる。


同じカロリーヌ・シャンプティエの撮影による修道院が舞台の映画ということで「神々と男たち」にも似ているけれど(共に終盤、しかし全く違う目的のために集合写真を撮る場面がある)、マチルドが作中一度だけ自転車に乗る姿に「東ベルリンから来た女」も思い出した。終盤、女性を「自由」へと送っていく場面もあるし。


修道女が修道院の外へ出るのには常に強い動機がある。終盤シスター・マリア(アガタ・ブゼク)がゾフィアの家へ向かう時のように遠景で捉えられても、その心持ちが伝わってくる。また冒頭つきまとってくる孤児達の一人が缶を蹴りながら坂を上ろうとするカットが挿入されるのが心に残った。上るだけでも大変なのに蹴りながらとは、しかし人はそんなこともしようとする。


修道女は肌を見せること、体を触らせることを禁忌としているため、マチルドが妊娠した皆を診察しようとしても一人を除き去られてしまう。しかしその一人は、おそらく赤ちゃんが動いたのと「専門家」に手で触られている安心感とで笑い声をあげる(これが作中初めての「笑い」である)。この時にはしまったとでもいうようにすぐ笑いを顔から消し去るが、そのうち何人もが診察中にリラックスして笑顔を見せるようになる。


マチルドは同僚のサミュエル(ヴァンサン・マケーニュ)とベッドを共にする。「両親は収容所で死んだ」「被占領地域を逃げ延びた」と言う彼が、マチルドの「額の裏」(面白い言い方をするものだ)を見たがるのも、彼女とセックスしたがるのも、いわば死と正反対の方へ向かう欲求に思われた。ことあるごとにマチルドの顔にそっと触れるのも、命の確認、あるいは交換をしているようだ。


お産が重なったことからマチルドがサミュエルに助けを求めると、彼はベッドの脇で「想像もしなかった、ソ連兵に孕まされた修道女のお産とは」と口にする。実は作中、女達は一度もそう、はっきりとは言葉にしていない。マチルドが暴行未遂に遭う前に「凌辱されたのは分かったけど私はどうすればいいの」と口にしていることから、自分から遠いことほど簡単に言葉に出来る、という意味が込められているとも取れなくない(尤もサミュエルは前述のように何でも「言える」人間だが)


マリアはピアノの音色に「今日のイネスはご機嫌ね」と言う。夜の娯楽室でピアノを弾いたり編み物をしたり舟を漕いだりと皆が思い思いに過ごす中にマチルダがまさに招き入れられ(この物語において、「入れる」という行為の何と重みのあることか)壁際に腰を下ろす、あの最も平和なシーンに、作中最も、彼女達がサバイバーであることを思った。


本作は音楽映画としても面白い。修道女達が夜明けに歌う讃歌の数々と医師二人が晩に飲み屋で聞き、踊るポーランドの曲の数々、イネスが上機嫌で弾くショパン、最後のお産から祈りのない夜明けまで長々と流れるヘンデル、ラストにはマックス・リヒターの「On the Nature of Daylight」。どれも合っていて、変な言い方だけど、まるで何も流れていなかったかのようにも思われる。


いいなと思ったのは、「私の子は他の人達にきちんと世話してもらえる」と分かれば、「私には育て方が分からない」「全てを忘れたい」と修道女であることも子も手放し「自由」を選ぶ人間も描いているところ。それから、映画の最後、常に画面の一番奥で皆を見守っていた年嵩の修道女が院長の枕元にあたたかいカップを置くところ。作中、いや今年に入って劇場で一番涙が流れたのが、アガタ・クレシャ演じる院長があることをした後に一人祈る場面だった…と、こうして書くことに何か意味があるのだろうか?考えてしまう。