バハールの涙



映画は目覚めた女(エマニュエル・ベルコ!)が家からの電話に出ることができず宿を発つこともできず、「娘に会えない母親」「現地に行けない記者」と自虐的に思うのに始まる。後にバハール(ゴルシフテ・ファラハニ)に案内された部屋で「銃を持って寝て」と言われ「私は記者だ」と返す彼女、マチルドには、記者こそ自分の仕事だという信念がある。バハールがフランスの大学で学び弁護士になったと聞き「仕事はもういいのか」と聞くのは自分と照らし合わせてのことだろう。しかし相手は「弁護士はもういい」と答え、回想すなわちその理由が語られる。


この映画には、帰るところがあるが帰らない女と帰るところを奪われた女の命と自由のための戦いが記されている。バハールはマチルドの「世界は見て見ぬふりをしている」という言葉(よりも終盤の「真実の持つ力なんてと思うけれど…」という言葉の方がそれこそ真実味があるのだが)や彼女に娘がいることを聞き、自分と違う経緯で信念を宿していることを理解する。暗がりの物音に銃を持って出る女とカメラを手に出る女、臨戦態勢で銃を構える女とそれを撮る女、面白いとかかっこいいとかではない、何だろう、自分がそこに並ぶことは出来ないが何か、と思う。


マチルドが自身で認めた文を読む声が流れるエンドクレジットが素晴らしい。「恐怖はなくなったと思ったがまだ怖い」。それはバハールの部隊の女達も同じで、「奴らが殺したのは我々の恐怖心だ」「奴らは怖いものなしの我々を恐れている」と言ってもやはり戦闘は怖い、そのことがひしひしと伝わってくる。でも言わなきゃならないし戦わなきゃならない。前線で取材するマチルドの「娘の存在が無ければ一週間もたない」なんて告白にも本当に重みを感じる。それらの中に大変に女の真実があるように、私には思われた。