ジャミリャー


中央アジア今昔映画祭にて観賞。1969年ソ連制作、イリーナ・ポプラフスカヤ監督。原作小説「この星で一番美しい愛の物語」を著したチンギス・アイトマートフ自身の脚本により、戦争で男達の消えたキルギスの山間での暮らしが少年の目線で描かれる。

「夏が短いのは残念だ、秋になって何が起こるか知らなかった」。映画は人の手による直線で構成された静かな室内で画家の男性が色鮮やかな水彩画を床に散らしていくのに始まる。「あの頃に戻りたい」という願望は仮に!かなおうと再び今に向かうことが決まっているのだから最も切ない感情の一つであるはずだけど現在はどうなのだろうと見ていると、映画の終わりに分かることに彼は「転んでも立ち上がる野生の馬」であるところの芸術と共に人生を走り続けているのであった。進むしかないと一番知っている類の人間だった。
 
冒頭少年セイトがパンを齧りながら窓の外に眺める母親と兵士の諍いには、この地において「集団農場での計画を達成せねばならない」と「兵士のためのパンを準備せなばならない」の二つが、対立とまではいかずとも重なり合っているというよりせめぎ合っているのが見て取れる。その後に兄夫婦の始まりである「競り馬」の様子が語られると、更にその下に地域に根付いた伝統があることが分かる。兄とジャミリャー(ナタリヤ・アリンバサロワ)による「競り馬」の疾走感と、彼女のいたずらにより不自由な足で110キロの小麦を担がされた帰還兵ダニヤル(スイメンクル・リョクモロフ)が板を上る重量感、いずれのアクションも迫力がある。人々は前者を笑いながら、後者を息を詰めながら見る。私にはどちらも重い、ジャミリャーとダニヤルの、一歩間違えたら死に堕ちる姿だから。

これは少年が画家を目指すまでの過程を描く物語であり、転換点にダニヤルの歌がある。あれが「嫁」であるジャミリャーと末息子のセイトを集落から連れ出し一家を離散させたのだと言える。彼が「愛してきたもの全てを思い出させた」と思い返す(思い返しているのだから、作中では現実ではないように響く)その歌により、その人物が元来持っていたものが掘り起こされ揺り動かされたと考えれば、セイトが持っていたのは絵を描くことに対する欲求、ジャミリャーが持っていたのは恋慕の心である。彼女は「国」「戦争」「伝統」いずれからも遠いダニヤルと駆け落ちする道を選ぶ。子ども時代から押し出された少年の激しい嗚咽は、私には当人が言う「初恋」より何かもっと大きなものの喪失のせいに思われた。