牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件



「本作完成時の当初のバージョンである3時間56分版」の4Kレストア・デジタルリマスター版を角川シネマ有楽町にて観賞。


映画が始まってしばらくすると、時代背景についての文章が出る。四時間もあるのに説明書きも必要なのかと違和感を覚えながら見ているうち、夜の小学校での少年達の「お前の兄貴が帰ってこなかったら俺達は終わりだ」なんてヤクザまがいのやりとりに、彼らはそういう時代だと知らずに生きているのだと気付いて胸ぐらを捕まれる。終盤には、主人公・小四(チャン・チェン)について小馬が「唯一の友達だったのに」とうなだれて泣く姿に、これは愚かな者達、つまり私達が世界で生きる話なのだと気付く。


オープニングが、小四は「国語」の点数が抜きん出て悪いため建国高校の昼間部に入れないと父親が聞かされる場面だというのは何とも示唆的である。冒頭、国語の授業の「『山』は漢字だと一文字で済むが英語では…」なんて話の合間に喋っていて当てられた小猫王(ワン・チーザン)が「それじゃあ『我』は(英語なら『I』で済みますよね)?」と返すと、教師は彼を呼び付け「我」と100回書けと言う。多くの映画で「先生」はこのように馬鹿馬鹿しい存在として描かれるが、それはお上の手先だから、映画はそれに歯向かうものだから、だろう。それにしても、日本でもそのうち「国語」の授業でこんなことを(教員が)やらされそうだよね(笑)


今の私にとって一番響いたセリフは、ハニーの「(手紙じゃなく)小説を書きたい、もう遅いよな、勉強しなかったから」。南に行った彼は自分達が可能性を奪われていると気付いたのである。しかしそれはあっさりと消されてしまう。小明の言う「世界」とはそういう世界のことである。ハニーと、後に彼のことを最高の友達だという小四とのやりとりには、小明の「彼は誠実だ」「世界は変わらないって私が言うと喧嘩になる」を思い出してぐっとくる(小四の靴下の裏が真っ黒なのがやけに心に残る)。ハニーは「昔の人も俺達みたいなチンピラだった」と「戦争と平和」を語る。チンピラであることとチンピラの物語を読むこととは違う、それが「よそからの目線」を得ることだと、ひいては「映画」こそそういうものだと、この映画が語っているようにさえ思われた。


小明の「あなたの昼間部の受験はハニーの台南の話のよう」には、「動けない」彼女の事情を思って苦しくなる(冒頭で彼女が脚を怪我するのは、振り返ると海軍で脚を怪我していたハニーに引きずられているようでもある)。少年達が「縄張りの女は俺達のもの」と考えるのは国のせいか、何なのか、分からないけれど、彼女がそうではないハニーや小四に惹かれる気持ちは分かる。「ずっと守ってやる」に何を言ってんだと思う気持ちも分かる。「与えるものをやっていちゃつくだけ」の男と付き合いもするのも分かる。小明の態度はオーディションでの姿に現れている。自然と涙が流れ、そのことに自分で笑ってしまい、されるがままに衣装を身に付けられる。見上げても誰も居ない。


作中何度も、小明の母親の治療費が高額であり、それは学校にボランティアで来ている医師の意思でどうにでもなるということを説明する場面が挿入されているのに、彼女について単に「色々な男と関係を持っていた」というようなことだけ書いてある紹介文はおかしいと思う、あるいはあまりに小四の心に沿っていると言うべきか。彼はホモソーシャルの輪から外れていたゆえに、女達から心情を吐露されて「しまうはめ」になったようにも見える。でもあんな言葉を聞きながら死んでいくだなんて、小明の生は悲しすぎる。


見終わって翌日、ふと考えた。今回の上映に際し、私達の多くが幾らかの情報を持って臨んでいるけれど、もしこの映画のタイトルにある「殺人事件」が何だか知らず、上映時間がどのくらいだか知らずに見ていたらどうだろう?私が見たのとは違うふうに、一瞬一瞬が流れてゆくに違いない。どんな作品でもそりゃそうだろうけど、この映画は特に、そうに違いないと思う。