すべて売り物/残像


アンジェイ・ワイダの遺作」の封切り日に、EUフィルムデーズで未見の過去作品が上映されたので、そちらからハシゴしてみた。


▼「すべて売り物」は1968年の作品。上映前に、後に講演予定の(私はそちらは聴かず)教授による映画の紹介があった。ワイダが自身で全てを手掛けた唯一の作品である本作は、「灰とダイヤモンド」に主演したズビグニェフ・ツィブルスキの死について書いたノートを元にして作られたが、出来上がったものは結局、映画監督についての映画になっているのだと。


疾走する列車と疾走する男。画面に色が付き、映画の撮影現場で列車に飛び込むスタンドインを監督自身が行ったのだと分かる。スタッフ銘々がそれぞれの仕事をこなす様子、監督が消えれば誰々が監督に持ち上がるかも、主演が来なければ誰々が主演に持ち上がるかも、なんて会話、相手役の女優が一人歩きながら話すのを誰も聞いていないという描写などにふと、当の映画はどこにあるのか?と思う。縦糸ばかりで横糸がなく織られることのない織物のようだ。後に監督が「彼無しで何を撮ればいいんだ」と言うので、その不在が映画の不在だったのかなと考えた。


見ながらふとベクデルテストのことを考えた。それにより遡ってこの映画を評価しようというんじゃなく、判定基準の有意義さについて。本作では主演俳優の「不在」について皆が語るが、「男女の仲」だった女二人が彼の話ばかりするところには、やはり彼女達が居るようには思われない。男達が彼について話すのは映画絡みだからそういう印象は受けない。逆に、映画において男達が女の話ばかりするならば、おそらくそこには男同士の連帯が浮かび上がるだろう(だから男の話ばかりしながらシスターフッドの方が強い、という映画なら全然ありだし楽しそうだと思う)


監督の「女優達は着飾っているが悲しそうだろう、人生を知りすぎたからだ、君はああなるな」に三人目の女、いや少女が「私は帰りません、監督は他にもいますから」と返すのは痛快だが、最後に彼の映画に出ているくらいなら(それまではしていなかった口紅を引く場面が強烈である)やはり学校に行った方がいいのではと思う(笑)男と女の違いは、女優が回転ブランコを回すのと、主演俳優の後釜が馬と一緒に走り回るのとの違いにも表れているように感じられた。



▼「残像」は第二次世界大戦後の社会主義政権による圧政に殺された画家ブヴワディスワフ・ストゥシェミンスキを描いた作品。「無認可の芸術家」なんてコメディかよ、とはもう思えない。


オープニング、学生が草原で絵を描いている。そこへ左腕と右足の無いストゥシェミンスキが丘の上から転がり下りてくる。他の学生達もその真似をし、新たに加わった学生ハンナが最後に腰を下ろすと彼らは教授を囲んで車座になる。尊敬しない人の前では決してこんなふうに座るまいと思う。上映前に見たエミリー・ディキンスンの伝記映画の予告編に彼女が頑なに座らない場面があったので、余計心に残った。ちなみにストゥシェミンスキが自分から誰かに、それこそ娘にも近寄ることはこれ以降、無い。


面白いのは、場面が変わると美術館に子ども達が来ており、館員に「あなたはコブロとストゥシェミンスキの娘さん?」と問われた少女が「今は離婚しました」と部屋を後にすることだ。あれだけ学生に尊敬されている人物でも、家族とはうまくいかない(しかし美術館の展示室ではずっと一緒だ…と思っていた、この時は)。ストゥシェミンスキが学生達に「もう昔のようには戻らないだろう」と言うのと対照的に、「制服を着た行進」の意味が分からない娘は「今の方が悪くない」と言う。父の元を出て行った娘について彼が口にする「彼女はこれから生き辛いだろう」、あれほどショッキングな、残酷な言葉ってない。あるいは自分になぞらえているのか。


ストゥシェミンスキがお金を払って食事の世話を頼んでいるらしき女性が部屋にやってくる場面が、三度ほど挿入される。芸術に興味のない彼女は「熱いうちに食べてください」と彼が作業中の机の上の紙をずらす。芸術に生きる人間と芸術に興味のない人間とが共存している様がいかにも健全に感じられ嬉しかったが、終盤彼のお金が尽きると彼女は「うちも苦しいんですから」とスープを鍋に戻し持ち帰ってしまう(配給の場面で、人々の切羽詰まった様子は既に描かれている)。私があの女性なら、食事を与えられるだろうかと考えた。ちょこっとでも分け合いたいけれども。


「すべて売り物」で面白かったのが、試写が終わった後に監督が試写室の壁をひっくり返して黒から白にするという場面。「残像」の方には、ストゥシェミンスキが自室で絵を描いている最中に建物の外にスターリンの赤い布を垂らされ光を遮られる場面と、講義の最中に今度は窓を開けられスライドを見えなくされる場面がある。光が常に問題だ。冒頭彼は学生達に「残像とは補色だ」と言うが、この映画を見て私に残った補色とは何だろうと考えた。


「すべて売り物」と「残像」には、その意味合いは違うけれども、「登場しない人物が常に存在している」という共通点があるのも面白い。あとお花。赤いのと白いのと、青に染めるの(下から吸わせず、ってそれで色が付くものか分からないけど、とにかくあの染め方には、彼が自分に時間が無いと分かっているのだと思わせた)。ワイダには詳しくないけれど、あれらの花、きっと好きなんだろうと思った。