娘よ



公開初日、岩波ホールにて観賞。劇場によると「日本で公開される初めてのパキスタン映画」で、本作がデビューとなるアフィア・ナサニエルが10年を掛けて制作したのだそう(時間を食った主な理由は、女性監督の初長編というので資金が集まらなかったからだとか)


(以下「ネタバレ」あり)


「Dukhtar」が「Daughter」と変わるタイトルの後、「ここ」では男と女が全くもって分断されているということが示される。中盤に女、アッララキ(ミア・ムムターズ)が火の前で「私の物語」を「15で結婚した時に終わった」と語る時、彼女がその年からずっとあの朝を続けてきたことが、また終盤のアッララキの娘ザイナブとソハイル(モヒブ・ミルザー)のやりとりに、彼女は自身が傷つけられたことを物語に組み込まなかったことが分かる。「神のご加護」という意味のその名が男達の口から発せられる度、どんな気持ちだったろうと想像する。


昭和の時代を感じさせる宣伝通り、いかにも「映画」らしい画面、見慣れたエピソードが満載で、子どもの頃に洋画劇場を見ていた時の気分を思い出すような映画だった。カセットテープをはらわたに見立てた脅し、子犬に歓声を上げその場を離れてしまうザイナブ、「お姫様」から取り出される銃。「マッドマックス 怒りのデス・ロード」や「裸足の季節」(いずれも2015年公開)に通じるテーマながら、母娘を助ける運転手の男性ソハイルが母のアッララキと恋に落ちるなんて「古い」けど、私は悪くないと思った(だって彼女達には「先生」も居ないしね!)


冒頭「小学五年生」のザイナブと同年代の少女が「どうしたら子どもができるか」と話しながら、その後にやはりザイナブがアッララキに学校で習ってきた「put」と「but」という単語を教えながら、それぞれはしゃぐ場面がある。きゃっきゃといかにも楽しそうだが、そのような状況が発生するのには事情があるわけで、すぐ後に、その二つは深刻な状況において繰り返される。


結婚式の当日、アッララキがザイナブを「山の頂に王子様を探しに行こう」と連れ出すのは、自分が…おそらく母も祖母も…教えてもらえなかったこと、「ここ」で女が結婚するとどうなるかということを教えようとするも、小学生の娘は「子ども」なのだと改めて突き付けられ、そうするのである。女は常に、「知った時にはもう遅い」ことから年少の女を救いたく思っている。だって他に誰が助けられる?


この映画には男の命の軽さも描かれている。物としての価値が無いのですぐ殺される。部族長であるザイナブの父は、抗争のため息子を四人も葬ったと言う。ソハイルの幼馴染は彼をかばいその場で撃たれる。そしてアッララキとザイナブを助けるソハイルは、「ムジャヒディン(ジハード遂行者)」から脱け出した(これもまた「知った時にはもう遅」かった例だ)流れ者である。ザイナブが今後「家庭」と「学校」を保持できるか分からないまま映画は終わるけれど、彼らは暗いトンネルを抜けられるだろうと思う。


(見ていて分からなかったのは、ザイナブが母との勉強中のやりとりをカセットテープに録音する理由と、祖母の電話口でのセリフの字幕が「男『達』が探している」となっていたこと。結婚相手の部族長を殺した向こうの男達が手を引き、追手はアッララキに執着する義弟だけになったと思っていたけれど、描写は無くともこちらの男達が辱めを受けたと探していたのかな?)