現代中国映画祭にて観賞、2024年イン・リーチュエン監督作品。中国の今年の興行収入トップ作品は同じく監督主演が女性(ジア・リン)の『YOLO 百元の恋』(感想)だそうだけど、どちらも主人公がSNSを通じて世界に自分を伝えるのに終わるのが面白い。あちらでは「私は勝った」と、こちらでは「私は決めた」と(しかもこちらは実話が元で最後に本人登場!)。自分を縛る「男」や「家族」はもう要らないと言っている。本作のエンディングに流れる歌いわく「孤独を笑われても私達は何にも属さない」。
リー・ホン(ヨン・メイ)が何かを遠くへ投げ捨てるオープニング(終盤それが何だか分かる)の後2016年に遡ると、仕事終わりにバイクをスロープに長い階段を上る彼女と幼い子を抱いた若い女性がすれ違う。女達は家でも外でも肉体を酷使して働いている。それが映画の終わりにリー・ホンが体を使うのは自分の車やテントの整備、仲間のために料理やそのサーブをして(家にいた時とは異なり)一緒に食べようと声をかけられる。体を使うことや料理が嫌なんじゃない、自分の意思が問題なんだと言っている。
父親に高校を退学させられ働くことになった日から、実家から遠ざかりたく結婚して遠くに来たのに、同じように「煮込みにしろ」と釣ってきた鯉を放ってよこす男にこき使われることになる(これには『グレート・インディアン・キッチン』(2021年インド)の料理をするだけで片づけない男を思い出したけど、こちらには殺生を強いられるというまた別の問題があるようだ)。だからどこかへ行きたいと思う。この映画は「ここではないどこかなんてない」とは言わない。魯迅のようにお金が必要だとも言わない。第一に、そこがよい。
退職後も孫を抱いてスーパーを訪れるリー・ホンの姿には、女にとって仕事とは外と自分とを繋ぐ貴重な場なのだと思わされる。元同僚は運転免許の話に孫の送り迎え?としか反応せず、旅に誘っても笑い飛ばされる。母は「弟は小麦粉、私はコーンの饅頭だったけど我慢した」と言ったものだし娘シャオシュエも自身の仕事上のチャンスを眼前にすればリー・ホンに家から出ないよう頼む。弱い立場の者同士が分断させられ時に争うはめになること、更にとりわけその相手が娘なら「普通」は我慢するところ、そうしないのもありなんだ、それが彼女達をも引き上げるんだということを描いている。第二に、そこがよい。
ベランダからの眺めが歪んでモノクロになるのは鬱と不安障害の症状だと女性医師が言っていたけれど、作中その他モノクロだったのは進学を断念させられ引っ越すことになった1982年のホンが親友達と撮った写真だったから、あれは「私の気持ち」は無いものにされると知る前の時間が彼女を呼んでいたのではと私には思われた。女の気持ちが無いものにされるのは「普通の女」という社会通念のせいだとこの映画は言っている、実際そうだろう。勤務先でお前の学歴じゃと差別された夫は帰宅後「テレビの女は優しい」と言いそこから夫婦の溝が深まり始めるが、多くの人はやがて「普通」に安住し目の前のものを受け入れなくなる。だから例えばこんな映画が必要なのだ。