マイアミ・ブルース/サム・フリークス

特集上映「サム・フリークス Vol.9」にて二作を観賞。


▼「マイアミ・ブルース」(1990/アメリカ/ジョージ・アーミテイジ監督)は詐欺師の男と大学生の女のしばらくの物語。

「何歳?」に始まり「『ペッパー』?」の笑いで締められるジュニア(アレック・ボールドウィン)とスージージェニファー・ジェイソン・リー)の出会いの一幕。相手の本名を知ったら自分も本名を知らせる、ここに彼の公平さが表れている(彼女がそれを知るのは映画の最後というロマンチック具合)。じゃあ始めましょう、からのスージーの大股開きに笑いが起きていたけれど、そういえば同じジョージ・アーミテージ監督の「ポイント・ブランク」(1997)でもやたら心に残るのはミニー・ドライヴァーのベッドでの振る舞い、というかベッドへ行き来する姿だったものだ。

「死んだら最高の場所に行く」と歌う「Spirit in the sky」で円環になっているこの映画は、この世にそぐわなかった男が一人消えたというふうにも取れる。アーミテージの映画に出てくる男達は何か言いたげなくせに何も言わない口元からして凡そ似ているが、私が知る中ではこのジュニアだけがその根を観客に見せる。「何が欲しいのか分からない」などと自身の思うところをスージーに言葉にして伝える(彼女はそのためのキャラクターにも見える)。五万ドル準備すればバーガー屋だがか開けるという彼女にそれをやる意味は?なんて尋ねる。意味を考えてしまう男なのだ。「指を折れば死ぬことを知っていたら殺人犯だ」なんて口にするホーク(フレッド・ウォード)と案外似た者同士なのではと思わせる。


▼「サム・フリークス」(2016/アメリカ/イアン・マカリスター・マクドナルド監督)は田舎に残った少年と後にした少女を含むはみ出し者らの物語。

マット(トーマス・マン)の後頭部に始まるオープニングの一幕の後に「Some Freaks」とタイトルが出て、フリークスとは他者によって作られるものだとつくづく思う。でもおかしいな、どんな映画だって、いやはみ出し者を描いている映画なら何だってそのことが示唆されているはずなのにと考えながら見ていたら、そのうち分かってくる、彼とジル(リリー・メイ・ハリントン)は目を入れること、痩せることによって他者による自分の像を「普通」へと変える、これはそれによって何が起こるかという話だからだ。

エンドクレジットのニール・ラビュートの名前にそうだったと思い出す。はみ出し者が「普通」のことをするのを見る時、私達は見慣れないと感じて居心地の悪さを覚えるのではないか。それはおかしいのではないか。これはそこを突いてくる映画である。変貌した自身を鏡に見るジルは、前回の上映作「少女ジュリエット」を撮ったアンヌ・エモンの「ある夜のセックスのこと モントリオール27時」「ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で」の女達と繋がっている。

「イケメン」と言われるパトリックもまた他者による自分の像に悩んでいる。ああいうことは確かにあると私も肌では思うけれども、女が言動に出すことは男より圧倒的に少ないから顕在化することはそうないとつい思ってしまう。しかしジルとの場面に心のどこかで彼に優しくしてあげてほしいと願ってしまう、そんな気持ちこそが差別を生んでいるのだ。

「マイアミ・ブルース」と「サム・フリークス」を続けて見ると、前者のジュニアと後者のマット、男二人はいずれもこのくそな世界を生きるのに女が必要だと思っているような感じを受ける。それを愛と定義づけて大切にしているというのがより適切か。一方で女達にはそれがない。そんな彼女達は歌を歌うのだった。