
顔の見えない教師が子どもに押し付ける「沈黙が従順に、従順が秩序に、秩序が学力に繋がる」とは真逆の、自分をさらけ出したフアレス(エウヘニオ・デルベス)の授業が実力テストでの高得点に繋がったと最後に文で示されるが、この映画のテスト観が私にはよく分からなかった。教師のためでなく子どものためだとは言っているが、フアレスや生徒パロマがその結果でもって実力を証明する必要があるということや、良い点を取らない限り、いやテストを受けない限り支援が受けられないということに対する何らかの強い姿勢は感じられなかった。
映画の元となった「フアレス先生」がどんな授業をしていたか分からないけれど、面白かったのは作中の彼が班制度を取り入れているところ。学校(同僚)側がテスト対策をしない彼を責めるほど全体評価にこだわるのは腐敗を生むが、間違うことを勧め「10点」を保証しさえすれば「2班に得点!」といったやり方も効果があるとしている。
前にも書いたけれどフィリベールの『ぼくの好きな先生』(2002年フランス)に顕著なように学校映画とは常に中途であり、せいぜいが学級開き、すなわち生徒と教員の出会いから描かれるところが、この物語ではフアレス自身が新しいことに挑戦するのに始まるのが面白い。「子ども達が卒業式で抱きついてくる」か否かを尺度に自らの存在意義を疑い、世界が変化しているのに学校が変化しないのはおかしいのではと考え、校長がそんなもので?とあきれる「動画」というものを切っ掛けにやり方を変えるんだから。
また俗に教員は役者だとも言われるが、この映画のフアレスはまさにそうで、教案じゃなく台本を書いての自作自演といった感が楽しい。30分留守にすると教室を出て行きながら様子を見たくなる自分を押し留める、急いで戻ってきて教室に入る前に息を整えるなどの「舞台裏」や躍動感あふれるカメラもいい。
私が小学生の時に大好きだった先生も、自分は子どもの頃クラスのとある男子生徒のようだったと皆に話してくれた。全員に対して言うか一人に対して言うかの判断は教師にとって常に重要である。フアレスの場合はおそらく諸々の理由から小道具の新聞の陰でこっそりとニコに私も昔は君のようだった、そのままでいろとアドバイスする。
ある朝早く登校し恋のアドバイスを求めるニコの「自分はばかだから」に対するそんなことないとの強い返し、「好きな人に自分のすごさを見せつけるんじゃなく相手が羽ばたけるよう後押しするんだ」にはぐっときた。「先生はなぜ全部分かるの?」への「失敗を重ねてきたから」には、「パソコンさえあればぼくは要らないんじゃないか」とも考えるフアレスの今の日々こそが生徒にものを教えられる根拠だということが表れている。
(以下少々「ネタバレ」しています)
映画の終わり、テストの前にフアレスが今の自分のクラスの子どもだけを集めて話をするのにも表れているように、教員の仕事には目に見えて限界がある。パロマの父が言う「また次の子たちを教えるんだろう」は正しい。しかしこれは、言葉にするとあまりにベタだが限界があっても挑むことが大事なんだという話である。私にはそれがそマタモロスの子らにとっての「現実」である銃の音を聞く場面に表れているように思われた。図書室で、自宅の庭でそれを聞く時には何もできず授業や会話を続けるしかないが、ある時にはふと気付く。現実的には彼の中の集積が働いたと言えるし、映画的には撃ったニコの叫びに呼ばれたとも言える。あそこに限界とそこへ向かう運動とが見えた。