親愛なる君へ


夜景を見る三人の後ろ姿。息子ヨウユーを肩車したリーウェイ(ヤオ・チュエンヤオ)の手が、並んだジエンイー(モー・ズーイー)の手と繋がれている。これだけで、リーウェイ亡き後にジエンイーがヨウユーの、加えてリーウェイの母シウユー(チェン・シューファン)の面倒を見る理由が映画を見ている私達には分かるが、作中の他の人には分からない…と思いきや私達にも実のところは分かっていなかった、という二段構えの映画である。
パートナーの死後に残された子や親の世話をすることが、(ジエンイーいわく)女なら何とも思われないのに男だと想定もされない…という男女双方への偏見の問題から、人にはそれぞれ事情があるのだという更にその根にまで話が展開することで、焦点が少しぼけてしまった感じを受けた。

警察が訪ねて来た朝、ジエンイーは皿を洗っており即座には応対できない。家宅捜索の旨を告げられると、今日ヨウユーはテストだから遅れず送っていかねばならないと言う。着替えさせたり歯磨きを促したりと、子どものあれこれを把握して世話をし見守るという、大人と子どもが家族であるとはこういうことなのだというジエンイーとヨウユーの生活の断片が丁寧に描かれる。
対して警察の「子どもに何かあったら」とはいかにも本心のようだが、二人暮らしのうちの大人が連れて行かれたら授業後の子どもがどうなるか想像もしない。「(他の人物に向けて)お前が捕まったら『お母さん』はどう思うかな」などと口をついて出てくるようじゃそりゃそうか。

(以下「ネタバレ」あり)

この映画の特徴は、ジエンイーのいわば現在と、彼しか知り得ない(厳密にはそうでない部分もあるが)回想シーンとがあまりにはっきり分かれていることだ。真実とはあくまでもその人だけのものなのだと言っているようだ。それゆえ大切なそれを認めて残すことが大きな意味を持つし、私達は描かれることのないリーウェイの母シウユーや元妻の人生にも思いを馳せることとなる。
しかしジエンイーにつき、実は息子ヨウユーと私達しか知らないことがある。それは仕事をしているジエンイーを、病院で眠ってしまったジエンイーを、ヨウユーが見ていたということ。「叔父さんと呼んだらお年玉をやるぞ」の元に、中国に引き取られても、パパ2号の「永遠に愛してる」が少年をこれからもある程度は救うだろうことが、私達には分かるのだ。