母性


第3回東京イラン映画祭にて観賞。2017年、ロガイエ・タヴァッコリー監督。

今回の上映作のうち女性監督の作品は二本、いずれも女だけの家の物語だった。イラン・イラク戦争を描いた「別荘の人々」(感想)に対し、こちらは現代のヤズドが舞台。姉妹とその叔母、夫と別居中の妹の娘の計四人が「ストーブのやかん、空じゃん!」「自分でいれなよ」(日本ならこう言うところ)なんて感じで居間に集って暮らしている。水色の壁、中庭に池とオレンジ、水に落ちた果実を追う場面が楽しい。この家だけでなく窓の外から、内から、路地、お店、乗り物など街の生活がよく映し出されている。

「別荘の人々」の女達が婚姻による繋がりを戦争に奪われているのに対し、本作の女達は婚姻から離れている。叔母が口にするように「女は常に男と居るものだ」との考えがまだ根強い社会では、どのような事情であれ婚姻の無い場所にはある種の不安定さが窺える。実際一見四人がつつがなく暮らすこの家にも、強引で唐突に見える要素によってとある結末に至るまで常に緊張感が漂っている。映画はある出来事の後で叔母に「昔は結婚したら我慢してでも添い遂げるものだった、でもあなた達が私の暮らしに入ってきてくれたから夫と別れることができた」と告白させある種のハッピーエンドを迎えるが、私としては安定を多大な不幸と引き換えにしたようで少々釈然としない。何でもなくても幸せであれと思う。

姉の友人が経営しているウェディングドレスの店のどこか軽い感じ、妹の夫が結婚式のカメラマンとして働くことに抱いている憤懣。原題でもある「母性」は女、あるいは女のうちの誰か、幾人かに備わっている子どもを愛し世話する心という善きものとして言及されるが、婚姻の方には埃をかぶせているようなのが面白い。姉妹が望むのは、好きだから一緒にいたい、好きじゃないから一緒にいたくない、ただそれだけである。

姉の職業は小学校の教員、ここで見るそれは実に「女の職場」である。授業中に男の子達に「ちょっと手で目を覆って」と言うので何かと思えば(後に好きな人からもらったと判明する)髪留めがすぐ落ちてしまうのを直すのだった。ここで一人が指の隙間から先生を覗く(いわゆるほのかな恋心が垣間見える)描写に、この映画の伝統との付き合い方が表れているように思う。ちなみに彼女が序盤に校庭で子ども達の喧嘩を(結構適当に)止めるのと、ラストシーンに路地を抜けた向こうで男達が喧嘩をしているのと、あれらには意味があるんだろうか。喧嘩をする男というものには母性がない?