アイヌモシリ


何かを見つめる少年の顔のアップに次いで彼の母親(と後に分かる、クレジットで「本当の」母親だと更に分かる)が観光船でアイヌの楽器を演奏する姿。お客の側で見始めたのが、続く観光アナウンスの中で朝食をとる少年の場面でこの地での、「普通じゃない」と彼が言う生活がここでは「普通」なのだと伝わってくる(そして映画の終わりの朝食の場面ではもうアナウンスは流れない)。私のそれとも幾分重なる夏休みの音の数々とかの地の音の数々が相まるに従い、自分と彼とがもっと重なっていく。

しかし檻の中の子熊の行く末をこの少年カントが知った時、途絶えていた観光アナウンスが再び外から聞こえ、客の訪れる祭の映像がインサートされ、彼と私の足元が揺らぐ。ここで主人公が子どもである理由が分かる。大人だって実はそうだけども、子どもはまだ立ち位置を決めるよう迫られてはいない。作中では大人達と(大人がまとめる)子ども達の話し合いの場がどちらも描かれるが、「観光で食ってる」との意識がある前者がいわゆる「一般受け」を考えねばならないのに対し、後者には「アイヌであることを言わない『自由』」もある。しかし、マイノリティ全てに言えることだけども、なぜこんなことを考えねばならないのか、なぜそれによる仲間内の分断を引き受けねばならないのかと思う。そうした徒労を他者に負わせていることを、私達は常に意識せねばならない。

そんな途上にあるカントに対し、夜道で並んで歩く母親は「好きにすればいい」の後に不意にくすぐったり、バンドをまとめるオキさんは無言で抱きとめたりと、子どもに「私はあなたが好き(と伝えたい)」と体で表現する。これがよかった。更に言うなら、山の神様への挨拶は省略するオキさんが、カントと横並びで座って「この景色を見てどう思う?おれは切なくなる」と話すストレートな場面にはこの映画で最も胸を打たれた。

冒頭の教室や廊下の様子にこれは本物の学校だなと思っていたら(エンドクレジットのロケ地に阿寒湖中学校とあった)、見ているうちにどうも全てが「本物」らしいと気付く。話が進むうち、となれば「儀式」(イオマンテ)も「本物」を映すのだろうかとふと考えてしまったのだけど、エンドクレジットの「いかなる動物も映画の撮影のために傷つけてはいません」との(映画ファンには馴染みの)文言で、そうかこの断りで十分なんだと気付いた。それ以上のことは言えない、だってマジョリティのあれこれのように土俵に乗る機会がないんだから。

「82年生まれ、キム・ジヨン」のお正月の場面で男ばかりが儀式をやっているのには反感を覚えても、この映画の儀式でやはり男だけが前に出ているのには思考が立ち止まってしまう。その理由は端的に言って、そこにいる全員がマイノリティだという認識が私にあるからだ。これに似た論題は幾らも思いつく。かように全ては重層的で複雑なので…今は私にはこれ以上のことが言えない。何かをしない限り。