別荘の人々


第3回東京イラン映画祭にて観賞。英題「Villa Dwellers」、2016年、モニール・ゲイディー監督。イラン・イラク戦争の最中、軍人の妻子達が疎開施設となった前線近くの別荘に待機する姿を描く。

映画は「トヨタハイエース」が別荘に向かう道のりに始まる。運転手の青年が運ぶのは年配の女性アズィーズと孫二人に物資、施設の人々をそう波立たせるものではないはずだが到着後のやりとりがやけに細やかに描かれる。程無くこの「ハイエース」は前線の情報を伝える役割を担っているため女達がその到着にひどく敏感になっていること、食事を作って食べ、内職をする一見静かな日々が大きな緊張感と共にあることが分かってくる。空襲や爆撃の被害も描かれる。「空襲は終わりました」なんてアナウンスの無情なこと。

アズィーズの息子の妻スィーマーが施設の「司令官」に詰め寄る「みな平等だって言ったじゃない」の平等とは権利のことではなく状況のことなのだから奇妙なセリフに聞こえるが、戦争の間を何も出来ずただ耐えるしかない時、人は皆に同じ出来事が降りかかるのでなければ理不尽だと考えるようになるのかもしれない。現在戦時下でない日本に生きる私には、この映画、いや多くの戦争映画に描かれる、家族のことばかり考えねばならない時間は大変なストレスに感じられる。

この映画は女達が心を通い合わせる様を描いている。「病院で血塗れの人達を見たら自分の問題なんてどうでもよくなる」と言うアズィーズと「短大出」で自分と子どもだけでも国外に逃れたいと考えているスィーマーが並び歩くまで(ポスターの一つに使われている)、「死んだのが自分の夫じゃないと分かる度に喜んでた」と告白し合うスィーマーと「司令官」、夫に勧められながらも自身の勉学を中断している「司令官」が年若い女性の進学を願っていたと分かるラスト。とりわけ後二つは私には静かな衝撃であった。