ソニータ



映画はノートに「大勢の観客」の写真を貼るソニータ、女の子達の前で歌うソニータの姿に始まる。昨年NHKで放送された50分の「ソニータアフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ〜」と比べると、倍近い時間を使ったこちらは、穴が埋まる、あるいは点が増えることで推論をより進められる内容だった。例えば児童保護施設における「理想のパスポートの作成」「理想の記憶への書き換え」といったセラピーの後に挿入される、ソニータが結婚の決まった友達の前で自分の詩をラップしてみせる場面が少し長くなっていることにより、彼女が普段していることをカメラの前で「再現」してもらうのもセラピーに近い役割を果たしたんじゃないか、なんて考えた。映画作りにはそういう一面もあるんじゃないかと。


妹の結納金で結婚資金を賄おうとする兄を説得してもらうために呼んだはずの母親に連れ戻されそうになるくだりで、やはり番組には無かった、部屋の角に座ったソニータに「私を買って」と(彼女自身の言葉だけど、「再現」という意味で)言わせるカットが挿入される。これもまた、しばらく後の、監督ロクサレ・ガエム・マガミの「我々は2000ドルを払うことに決めた」との言葉を、番組を見た時とは違ったふうに感じさせる。保護施設の「先生」の、「あなた(ロクサレ)なら何とか出来たのに」という言葉は強い。先生は母親を非難するスタッフに「悪しき環境が彼女をああしている」と言い切り、ソニータには「女性が歌うのを禁じられているイランで、友達としてではなく施設としては応援できない」と伝える、そんな立場にある。それじゃあ映画の作り手は?何かすることで目の前の人間が救えるけれど、「被写体の人生に関わってはいけない」からそうはしないというわけ?という話だ。


組版(と言うのか)と映画版を両方見ることで、他の気付きもあった。双方の「分量」の差が最も多いのは「物語」の終盤である。アメリカに渡る書類を揃えるためにアフガニスタンに戻ったソニータが家族と再会する場面や、カブールのホテルの厳重な警備体制、テレビで見るテロのニュースなどについて、確かに短くするのに省くならここだな、そりゃあ彼女が膝に乗せる、彼女の歌を意味は知らず歌う甥っ子達が将来は…なんて想像してしまう面白さはあるけれど、なんて思った直後に、映画って、何かを伝えるのと同時に「伝え切れはしない」という罪も背負っているんだな、なんて考えた。いや違う、誰かの人生についてのドキュメンタリーを、(見てもらうために「選択」しなきゃならない作り手ではなく)見ている私が「ここは省いた方が面白い」と思うなんて、何様だって話かな。


バスの停留場まで迎えに来たソニータを前に涙ぐむ母親の、滞在中の笑顔の数々に、彼女がどんな時に笑顔になるのか、いや笑顔を他人に見せるのか、私には理解が出来ないな(文字通りの意味ね)と思いながら見ていたら、先生が彼女を呼び出してのやりとりの後に、施設のスタッフが「(後で呼ばれたソニータについて)部屋を出る時に笑っていたから嘘をついていたのでは(本当は余裕があるのでは)」と言う。隣国の人同士でも分からないんだから、私に分かるわけがない。同様に、ベッドで「もう寝るのにスカーフを外すから撮影はやめて」「家族に知られたら大変」と疲れた様子で言っていたソニータが、監督の部屋や列車で髪を出しているのは、そこがアメリカ、いや「違う場所」だからだろうか?それも勿論、私には「分からない」のだ。