太陽のめざめ



公開初日、シネスイッチ銀座にて観賞。面白かった。昔のフランス映画の体に新しい内容が入っているよう。マロニー役のロッド・パラドが凄くて、山岸凉子の描く少年が実在した!という感じ。ちょこっとだけ見られる笑顔も最高。


映画は判事フローレンス(カトリーヌ・ドヌーヴ)のオフィスに幼いマロニー(長じてロッド・パラド)が置き去りにされるのに始まり、彼が自分の子を抱いてその部屋を、更にはpalais de justiceを去るのに終わる(外の階段に警察が溜まっているのがなぜか心に残る)。冒頭から何度か出てくる判事の部屋での話し合いの描写がえらく長いのに妙な感じを受けていたら、それが彼女の「仕事」だからだと分かってくる。


私にはこの映画は、一人の子どものためにどれだけ多くの大人がどれだけ懸命に働いているかということを訴える作品にも思われた。冒頭から判事にその助手、弁護士、検事、矯正施設や刑務所の職員など次から次へと登場する。フローレンスが壇上に、マロニーが被告席に着く法廷においてカメラがぐるりと回りその場の人々を映してゆく場面や、一度しか出てこない刑務所の所長や法廷の警備員?の仕事ぶり、すなわちマロニーへの接し方が心に残る。


教育係ヤン(ブノワ・マジメル)など、矯正施設に入るのを拒んで車から降りないマロニーに対し「お前が一日ここに居るだけで230ユーロ掛かる」と言ってのける。「大人」は子どもにそんなことを言ってはいけないのかもしれないけれど、自身も「元不良少年」であったと思われる彼は(って、ブノワ・マジメルが子役出身で早々に子をもうけているのも重ねてしまう・笑)言ってしまうのだ。


マロニーに関わる大人達は誠実に仕事をしているのであって、決して彼の身内ではないということが強調される。先のようなことを口にしてしまうヤンは、後に判事に「執着しすぎよ、父親でもないのに」と注意される。作中最後にマロニーが判事に会いに来る場面で、彼の子を「起きちゃうから」と理由を付けて抱こうとしないのも「距離を保っている」からだと思われる。


そんな内容だからこそ、映画としては、対する少年マロニーの鮮烈さが必要なのだ。ここにはロッド・パラドの演技によって見事に「実在する感じ」が焼き付けられている。大人に心を開くようになったマロニーが、最後には同世代の「仲間」にふと思いやりを見せる(しかも冗談めかしてだが、生きるのに必要な「お金」の話をする)のには希望が持てる。


マロニーと、矯正施設の教員の娘テス(ディアーヌ・ルーセル)との関係こそ、昔のフランス映画ぽい。「教育を受けなければどんなセックスに至るか」の見本のような行為が描かれるが、彼女の言動と彼の「愛」によって、それなりに熟してゆく。この辺の暴力を「映画」として見られるようにも描いているのも、昨今あまり見かけない、フランス映画ぽい。