愛する人に伝える言葉


映画は医療従事者のミーティングの様子に始まる。医師のエデ(ガブリエル・サラ)をファシリテーター及び指導者として、音楽やお菓子を楽しみながら参加者が思いを口にし助言を受けるというケアが行われている。あまり見たことのない場面で素晴らしい。彼らに比べたら全く過酷なわけではない私の仕事にもこういう場があったらなあと思わせる(しかしその時間をどこに取るんだとも思う)。

映画は陽射しの中、風光明媚な山道を姪の結婚式に車を走らせる非番のエデにバンジャマン(ブノワ・マジメル)の死を伝えた看護師が電話を切った後ろ姿に終わる。私にはそれがまたオープニングに繋がるように思われて、その円環に映画の作り手エマニュエル・ベルコの医療従事者への敬意を感じた。「その事実が起こるのは患者」ながらも、これはバンジャマンが最後には「ここが家だ」と言う病院を舞台とした群像劇なのだと。

エデはバンジャマンに対し「何も隠さない約束だ」と暗に息子のことを告白するようぎりぎりまで迫る。後のバンジャマンの弁護士への「息子を捨てたから…また捨てることになるから」との言葉から「正しかった」と分かるが、門外漢の私にはこのやり方は際どくも見える。しかし本作然り、近年割と目につく「身近な者の踏み込んだ言動がよい結果をもたらす」映画の数々には、かつてのそうした作品に比べ確固たる裏付けがあるように感じられる。結局のところ踏み込みは必要なのだ、でもそれには不可欠なものがあるのだと言っているように思われる。

一方で演劇を教えるバンジャマンが学生達に「舞台上のエロティシズムは素晴らしい」と語りながら付ける冒頭の練習のいわば正当性は私には全く分からない。面白いのは、実際に医師であるサラが演じている病院でのミーティングこそ現実と同じやりとりが行われているであろうに、バンジャマンと学生による演劇後のディスカッションの方が生々しく時にドキュメンタリーのように見えるところだ。彼が指導する「永遠の別れ」と彼自身と人々のそれとの対比には、演劇とは何かが窺えるようで唸ってしまった。そして死の瞬間、カメラは「おれが死んでも世界は何も変わらない」、それは全く悲しくはないということを映すのだ。