マイ・ブロークン・マリコ


遺灰をあんなふうに撒き散らすはめになるこの物語を数多作られてきた男の遺灰映画と比べた時、これは女を物扱いする家父長制への反抗であるシスターフッドそのものの話だけれど、そう言いたくないというかそう言うのが悔しい。それが強く(作り手によっても読者や観客によっても)語られるほど、言葉が一人歩きして元凶への意識が薄れてしまう気がしてやり切れない。

原作漫画ではおまけ的に添えられていた不動産屋でのエピソードが、映画ではオープニングタイトルに使われている。高校生の頃のシイノ(永野芽郁)の「家出てえなあ」とマリコ奈緒)の「今すぐがいい」、それに続く中学生の頃のマリコの「(くじで)旅行なんて当たっても行けないし」とシイノの「そうだよな」では切実さが全く違うということが、見ている私達にはまだ分からないがシイノにはもう長年、痛いほど分かっている。

助けたい、助けなきゃ、それこそがシスターフッドそのものでありシイノが「めんどくさい女」だと思っていたマリコと離れられなかった理由だろう(しかし「どうしていいか分からなかった」し、結局どうにもできなかった)。一方で飛び散った遺灰への「キラキラしてて」などから、何と言おうかマリコそのものの魅力にも惹かれていたんだと思う。映画で演じた奈緒には説得力があった。

映画で付け足された屋上での線香花火の場面で、マリコは「シィちゃんはいなくならない」と言う。これは「シィちゃんから生まれたかった」を補強するもので、頼れる大人のいなかった、心配せずに過ごせる時間などなかった(「何もない日なんてないの」)マリコにとってシイノは「理想の保護者」でもあったことが分かる。「シィちゃんに彼氏ができて私が一番じゃなくなったら死ぬ」と言いつつ自分は彼氏ができれば連絡を断ってくるという、元よりいかにもありそうなことが余計にリアリティを増す。

シイノが終盤助ける女子高校生と既にバスで出会っていたという映画オリジナルの要素は、とりわけ「かっこいい男子」を肴にわいわい騒いでいる女子達との対比など不必要だと思った。これは高校時代に文集の「友達が多い人」に選ばれていた、まさに男子の話を毎日していた、数日に一回は痴漢被害に遭っていた私の感想である(助けられたことはこれまで一度もない。この物語のあれは奇跡だと私達は知っている。奇跡じゃないようにしなければと思いつつ)。フルフェイスヘルメットで顔の見えない犯罪者(これは漫画でも同様)と「顔がある」被害者という対比でもあるのかもしれないけれど、生身の人間が演じる映画で難しいとはいえ加害者の方こそ顔を見せろよと思う。

まりがおか岬は東京とは真逆の場所だ。マキオ(窪田正孝)の「半年前、僕も飛んだんです」を踏まえると、漫画では軽いギャグだったのかもしれない「ナリタ商店」の文字が、そんな彼を受け入れた人がいたということを表しているように思われる。「したいからしてるんです」と言う彼はシイノの同類で、目の前にいる人を助けるためには「手を取る」いや「掴む」ことが確実なのだと知っている。最後のシイノの「大丈夫に見えますか」は、そう、人に言ってもらって安心できることってある、シイノの心の中のマリコの「『お前が悪かったんだ』と言って」にも似ているが違う、こう使われるべきだったという正しい変奏なのだ。