ゲット・クレイジー/フリップト

特集上映「サム・フリークス Vol.20」にて音楽の楽しい二本立て。


▼『ゲット・クレイジー』(1983年アメリカ、アラン・アーカッシュ監督)は、ロードショー公開中の『ロックンロール・ハイスクール』(1979年アメリカ、同監督)を見て臨めたのが幸運だった。ほぼ同じもの…敬意あるライブシーンと、こんなの面白くね?…で出来ているこの2本は、二、三十年ぶりに別々に見るより短期間のうちに続けて摂取することで面白さが効果的に吸収できるから。作中最初に映る女性が『ロックンロール・ハイスクール』では校長だったメアリー・ウォロノフで、ピンクの(他の皆がTシャツのところ)モヘアっぽい服だったので、似たのを着てくればよかったと思う。

「今は68年じゃない、82年、もうすぐ83年になる」とのセリフがあったけど、「80年代初頭はまだ70年代」とはよく言ったもので(岡崎京子などの言)、隅から隅まで「70年代」に満ちている。『ロックンロール・ハイスクール』では体育の時間に見事な体操の技を決めるモブ女子達が印象的だったけど、こちらでもステージなどでいわば本物の体操が見られるのが面白い(何なんだろう、あれ。身体能力の高い女子に魅力があるとされていたとか?)。これらは私には『トップ・シークレット』のダンスシーンを思い起こさせるんだけど、『ゲット・クレイジー』の翌年に製作されたそちらはもう「80年代」に感じられる。同世代でも映画出身じゃないZAZの方が先に進んでいたのは不思議といえば不思議だ。

冒頭犬が蹴り飛ばされるカットに、80年代の終わりまでは動物を粗末に扱うギャグが多かったなと思い出す(いつからあったのかは分からない)。私は死体ギャグとこの動物ギャグが大好きなんだけど、公開中の『ブレット・トレイン』にも前者はまだあったのに後者はもうどこにもない。尤も「明らかに人形」「元気でした!カット」「仲間の復讐」とこの映画のような文脈があってももう見る気はしないかな。昔はマジョリティがギャグ職人としての気概でやっていたマイノリティギャグやジョークを今なら当事者がやらなければ変、というのにも似ている。


▼『フリップト』(2010年アメリカ、ロブ・ライナー監督)は、前説で岡さんが映画を見るばかりじゃなく大事にしなきゃならないと話してくれたヒューマニズムそのものという感じの一作。監督が後に同じ要素を用いて作った『最高の人生のはじめ方』(2012)の一億倍、繊細で力強い。ブライス(カラン・マッコーリフ)が冒頭に言うことに「1957年から62年、それからの一年」の話で、1962年が舞台の『ダーティ・ダンシング』(1987)から映画を見始めた私にとっては、変な言い方だけどアメリカ映画の前哨戦めいてもいた(ちなみに今回の二本立てでは共に『ダーティ・ダンシング』で使われた曲が流れる)。

ウェンデリン・V・ドラーネンによる同名小説が原作とのことで、小説でも映画でも活きる手法による構成がまず素晴らしい(たまに見るこの手法は私にとってはいわゆるSFなどの設定を凌駕している)。道一本隔てた二つの家の二人の子どもが、「恋」に惑わされながら互いを意識して育っていく。同じ時間がブライスとジュリー(マデリーン・キャロル)それぞれの立場で交互に語られ、私達も人々の未だ見ぬ内面をより想像するようになったところへジュリーが「そういえば私達は話をしてこなかった」「これが始まり」と終わる。最初のエピソードのとある状況につき、どれだけ長く続いたのかと思いきや「一週間」。そんな年ごろの二人である。

祖父チェット(ジョン・マホーニー)の「誠実でいることだ、始めは苦痛だが最後には救われる」はブライスの父(アンソニー・エドワーズ)にこそ誰かが早いうちに言ってあげられればよかった。ジュリーの第一印象を「空気が読めない」などとしていたブライスの方が彼女を幾度も傷つけてしまうところにこの言葉の正しさが表れている。級友のように「一線を超えた」くそならどのみちやることなすこと全てがくそとなるが、多くの人間は境界にあり、間違いながらやっていくものなのかもしれない。