Summer of 85


本当に16歳が書いた物語のようだった。同時に頭からお尻まで、韓国ドラマのラブラインならぬクィアラインとでもいうものにずっと貫かれており、未読の原作だってそうなんだろうけど、その組み合わせと強烈さがこの映画だと思った。

アレックス(フェリックス・ルフェーヴル)とダヴィド(バンジャマン・ヴォワザン)の間に実は介在していたルフェーヴル先生(メルヴィル・プポー/誘われたことを明かして「でも生徒と教師だった」と告げるありえなさの体現)、「女装していたおじさん」、「なんだよゲイ」、「女性を巡って争った後に…」、出会いの時には自らを死に晒していた男との再会での幕引き。クィアが家父長制の真逆に息づくものだとすれば、アレックスの母親(イザベル・ナンティ)への「たまには休みなよ」「母さん自身の意見が聞きたい」などもその範疇にある。
子どもとは、そこに居ない当人について大人達が話し合いを行う対象となる存在だと思う。本作でも教師と社会福祉士が向かい合ってアレックスに何を求めるべきか意見し合う姿が印象的で、こうした場面には作り手のオゾンの、過酷な道をゆく少年への、あるいはかつての自分が欲しかった優しい目線が窺える。

ダヴィドの言う「スピードの彼方」に対するアレックスの解釈は、彼らより少し上の年の時に初めて聞いた哲学の授業を思い出させる(16歳が書いたようだと感じる理由の一つがこれかもしれない)。決して追いつかないものへの運動が「無限」なのだと。しかしダヴィドは彼方に追いつき一体になることができる、それが夢がかなうということなのだと言う。それは運動、すなわち生をやめるということだ。彼がナイフ、いや櫛を開くのと共に鳴っていたシャキーン!という音が二人の最後の場面ではもう聞こえないのが、演劇的なそれじゃなく実際に迫っている死を感じさせる。
せっかくもらったヘルメットを、いつからかアレックスは被らなくなる。バイクの後部座席の彼の姿には、肉体を感じながらも好きな相手に「それ」があることが不思議でたまらず、離れることなく確認し続けたいという思いが見えた。それは死によって断たれてしまう。

物語の始めには、何を着ればいいか分からず、仕事に就くか(母親いわく「仕事には繋がらない」)文学の道に進むか迷い、「本物の親友」を求めているアレックス。「息子には本物の親友が必要」とこだわるダヴィドの母(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)もその反転に思われて、あのあと彼女はどうしたかと思う。
振り返ると私の頭の中からダヴィドは消え去り、心に残るのは彼が一度だけ流した涙の筋のみ。それは「君も同類だと思ってたのに」からの「ぼくを独占しようとした」で美しくも流れ落ちるのだった。あそこには、アレックスが見ていなかったいわば実の彼の手がかりがあると思った。