或る終焉



「さざなみ」(感想)がシャーロット・ランプリングが家とせいぜい近所に出掛けるだけの映画ながら強烈に「生」を感じさせたのと同じく、本作はティム・ロスが殆ど他人の家に居るだけの映画ながら、彼の手による幾つもの冒険…冒険するのは彼ではなく「患者」だけども…とでもいうようなものが描かれる。映像から何から、私は「さざなみ」の方が好きで、素晴らしいと思うけど、こちらも面白かった。


オープニングショットは車の中からとある家の入口を捉えた映像。「普通」に考えたら主人公の視点だけども、そうした際につきまとうきつさのようなものが無く、妙な言い方だけど誰かの視点が世界と溶け合ったような柔らかさがあり、惹き付けられた。「カメラ」が助手席にあるのもその一因で、これはそういう映画なのである。やがて家から出発した車を追って運転するデヴィッド(ティム・ロス)の横顔が映される。


私にはこの映画は、他人を幾度も冒険に連れ出してきたが、自身は冒険する機会がなかった者の物語に思われた。体の自由がきかなくなり手練れの他者に何かをしてもらうことを「冒険」と言うのは語弊があるかもしれない。しかし、例えば「驚かないで体を支えて」と下の布を引き抜かれ「この体勢で少し待って」と言われ保持する、それってなんて、今までには無かった体験だろうと思わずにはいられない。脳卒中で倒れたジョン(マイケル・クリストファー)の子らが「父を操っている」とデヴィッドを(観客には分かるが、全くもって事実無根の)セクシャルハラスメントで訴えるのも、父親があまりにもそれまでとは違う顔をしている、新しい経験をしてそれまで見せなかった顔をしていることへの驚きゆえではないか。


エイズ末期患者のサラの葬儀(あの時ずっと聞こえていたのは何の音だろう?)の晩、バーで「妻が亡くなった」と嘘をつくのを始め、デヴィッドは色々な「偽り」をする。ジョンと会話をするため、あるいは彼への「誕生日プレゼント」を入手するためなど「役立つ」ものもあれば、傍から見れば単なる戯れのようなものもある。これは彼が「Chronic(原題)」から逃れるための、自分に出来る範囲内での小さな冒険のようにも思われた。


特に前半は殆ど、デヴィッドは「他人の家」にいる。当人はかつて目をつぶっていても使えたかもしれない「道具」の数々を、必要とあらば手にして彼らの生活を支えるが、彼自身は、妻や娘と疎遠な今は、自宅に「生活」は無く、コンピュータで娘のアップした写真を見るだけ。しかし終盤には、昔の家で娘に「私たちを手伝って」と言われるまでになる。同時期に看護を引き受けることになった末期がん患者のマーサ(ロビン・バートレット)の家を訪ねる時、彼女が育てたのであろう草花のこちらから、伸び上がって、窓から名前を呼ぶ姿が印象的だった。「送迎だけ」のはずが、その必要があると考えたのだろう、常に傍らに付き添うようになり、彼女は娘からの電話の際にも横に居ていいなどと言う。


デヴィッドが事務所へ出向く場面でふと「リッキー・ター」、すなわち「実働部隊」を思い出した。映画などで見るスパイが二十四時間スパイであるように、看護師の彼もいつでも看護師だった。行く先々で接する他の職業の人々(書店員の女性やジムのカウンターの男性など)の、デヴィットとは明らかに異なる仕事ぶりが心に残った。