マリアンの友だち/タイムズ・スクエア

特集上映「サム・フリークス Vol.10」にて二作を観賞。これまで見てきたこの企画のうち今回ほど、こんなにも同じ要素が被りながらこんなにも扱いによりそれらの意味合いが違ってくるという二本立てはないと思った。それでいて根っこは同じ。毎度のことながら素晴らしい組み合わせ。


▼「マリアンの友だち」(1964/アメリカ/ジョージ・ロイ・ヒル監督)はニューヨークを舞台にした14歳の少女二人の物語。

初めて一緒に「探検」に出掛けたマリアン(メリー・スペース)とヴァル(ティッピー・ウォーカー)の「中国人に追われてる」という設定に、確かにピーター・セラーズが出てくる。二人は彼演じるヘンリー・オリエントに「円(「チップ」のつもり)」「オリエンタルバザールで買った笠」など東洋を重ねていく。セラーズがそうではないと分かっていながら異国の人間と見る(本作の「後」の)あらゆる映画の観客の愉しみは、少女達が恋に敢えて没頭するのにも似ている。

オープニング、マリアンがスクールバスを降りると木枯らしが吹いている。私などは止まないその音に厳しさを感じるが、彼女とヴァルはその風の強さゆえに接近し、嫌な先生の名前を言い合ったり歯の矯正具を見せ合ったりして親しくなる。遊ぶ時には走る、走る、ジャンプ、ジャンプ!ヴァルの帰宅時の第一声は「3歳の男の子を飛び越えられた」なんだから。

ホリデーシーズンにはカードが壁に、階段にあふれるマリアンの家の素敵なこと。彼女が生まれた頃に離婚したという母親とそのパートナーである女性との三人暮らし。家事を担当しているらしきその女性の方が暖炉の脇の大きな椅子、母親は小ぶりな椅子、娘はソファに座る。ヴァルの精神科医通いについてのキッチンでの大人二人の言葉「頼れるものには頼らなきゃ」「(ただ一人通院経験のないマリアンへの冗談として)正常者は黙ってて」が軽快。


▼「タイムズ・スクエア」(1980/アメリカ/アラン・モイル監督)はやはりニューヨークを生きる13歳と16歳の少女の物語。「すべてをニューヨークの地で撮影」との文で締められるこの映画は、ここに生きる人々を確かに収めていた。

二人と十も離れていない歳の頃に見てずっと心の底に抱いていたものの冒頭より思い出せずにいたのが、医師とニッキー(ロビン・ジョンソン)の「転がる石に苔は生えない」「『ローリング・ストーンズ』にそりゃ苔は生えないよ、金持ちだから」といったやりとりに割り込むパメラ(トリーニ・アルヴァラード)の「先生はその諺の意味、知っているんでしょう」に鮮やかに蘇った。私もあれにむかついたんだった。「テスト」のためだろうと涼しい顔してあんなこと、「普通」の神経をしていたら出来ないと今でも思う。くだらない話を振られると、二人は互いに横槍を入れて助け合う。

ニッキーは病院のドアを開いて踊って手招きしてみせる。パメラはあなたの全てが詩なのだからと歌を書くことを跪いて勧める(後にニッキーは認めた詩を、彼女に同じように跪いて捧げる)。二人は相手のために新しい世界へのドアを開け合う。終盤パメラが自分じゃない、よりによって大人の男と楽しそうにしているところを窺ったニッキーの、学生時代には小さなテレビで見たものだけどスクリーンでは瞳から小さな涙がこぼれていた。「なぜこんな気持ちになるのか」と彼女は言うけれど、あれは思慕の気持ちゆえだろう。

本作の冒頭、ニッキーが大人達に拘束されるとカメラは宙に上り、ティム・カリー演じるジョニーがラジオで「ぼくは鳥だ」と語り始める。映画に出てくる「ヒーロー」がビルの上から自分の守る街を見下ろす姿には少々の傲慢さを感じるものだけど、屋上からタイムズスクエアを望む彼には自身が上にいるという自覚があるように思う。彼がするのは力を使った人助けではなく、「あいつらも病気だ」と反抗するしかないニッキーに「君達は病気じゃない」と教えてやることだ。保護者のいない彼女、あるいは彼女のような皆に伝えるにはラジオがいい。でも物を言うとは力を振るうということなんだと忘れちゃいけない。

ニッキーには「(パメラと一緒の姿に)テレビのCMかよ」「タイムズスクエアの主ぶって」、パメラには「他人を犠牲にしているくせに」などと責められるジョニー役に、自身もはみ出し者めいている、加えて食えないやつの空気を何割かは持っているティム・カリーが、あの表情がぴったりだと改めて思った。物言う大人には、自分は憎まれ役であるという覚悟が必要なんである。毒づかれながらずっとニッキーをかばってきた民生委員、パメラの父親、精神科医といった大人達が最後に彼女を穏やかな顔で見上げているのも印象的で、今の私には、あそこに映画の優しさと真面目さが詰まっているように思われた。