ブラック・ウィドウ


映画で一億回は見てきた「データ転送中」の場面でナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)が炎の中に一人残って取り戻すのが「女の顔」。ドレイコフ(レイ・ウィンストン)が彼女の話術にのせられ嬉々として「おれは有り余る資源、girlsを上手く利用してるんだ」と見せつけてきた、彼が消し去った少女達の顔の数々である。表象の多くにおいて女から顔が奪われているという現実を取りこみ、ベタであっても画で見せる、ああいう心意気が好きだ。ある人物が顔を覆われているのもその裏返しかなと考えた。

ナターシャ一人であれこれしている序盤は辛気臭い話だなと椅子に沈み込んで見ていたものだけど、エレーナ(フローレンス・ピュー)と合流してのガスステーションでの会話シーンで、女が二人になるとこんなにも楽しくなるのかと実感する。以降、女が増えるごとに風通しがよくなる。男による洗脳を解けば女の間の誤解が解けて、手を繋ぎ合える。このプロセスこそが本作の柱だと思った。

フローレンス・ピュー演じるエレーナ…というかピューはまず、死にそうにない。フィクションにおける女性キャラクターは「哀れに死ぬ」ことが多いから、それだけで良い。彼女の「あの、神様みたいなやつとか」なんてセリフもよかった。私としては「スパイもの」と「神様もの」は別の領域だから、アベンジャーズ関連の映画を見ても心の中ではいまいち融合していなかったものだけど、ここへ来て彼女がどうでもいいような(それが肝心)セリフで繋げてくれた。

「月のものか」にエレーナが長々返す場面もよかった。性被害を受けた女性は「痛々しい存在」である、ひいては「奪われる」ものを持っている女性とは皆「痛々しい存在」である、ユーモアとは共存し得ないという見解が社会には根強くあるけれど(私としてはSNSがこの問題を少し打開していると思っているけれど)、そりゃてめえ(=「月のものか」なんて言ってくる奴)の視点だろ、という。このエレーナ、全然楽しいじゃん。

ナターシャが少女だった頃のオープニングの一幕、彼女と「妹」エレーナ、「母」メリーナ(レイチェル・ワイズ)の三人の間には互いに愛情があるが、「父」アレクセイ(デヴィッド・ハーバー)は「あいつらは強いから」と怪我したり連れ去られたりする彼女達を見向きもしないのが心に残る(これは「強さが人を強くする」と娘らに教える母とは、同じ線上にあっても正反対の態度である)。長じたナターシャは父のことを「どこまでバカなの」と蔑み、話は彼がいやそれほどバカでもないのだと反論していく展開になるわけだけど、その根には国に(ドレイコフがgirlsをそうしていたように)利用されたという気持ちがあったのだろうか。彼の変化についてはいまいちよく飲み込めなかった。