ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ



最後を締めるのはアイリーン・グレイの「創造の素晴らしさは愛の深さによって決まる」という、「ありふれて」聞こえる言葉だが、この映画は彼女にとってのその意味を全篇を通じて伝えてくる。98歳で「大往生」するラストシーンとそれに続くエンドクレジットを見るに、その「愛」とは生に対する愛じゃなかろうか。カメラが倒れた彼女の足元を映す時、その靴やパンツの裾がいかにも快適そうで、ずっとそんなふうに生きてきたんだなあと思わせられた。


映画はオークションにおいてアイリーンの手による「ドラゴン・チェア」が1950万ドルで落札される、かしましく目まぐるしい一幕に始まる。大金をはたいた女性がその理由として原題「The Price of Desire」を口にし、タイトルの後に再び、今度は屋外でのオークションの場面となる。「E.1027」をオナシスと競ったル・コルビュジエ(バンサン・ペレーズ)が辛くも、無理やり、自らのものにする。


コルビュジエは「E.1027」の壁に絵を描きながら、そんなものアイリーンは望んでいないと言うジャン(フランチェスコ・シャンナ)に向かって「(何も無い壁が)地味で陰気だから」と言い放つが、アイリーン…確かに演じるオーラ・ブラディ自身にも陰気なカトリーヌ・フロといった感じがある…にそんな必要はないのだと私には分かっている。冒頭から見てきた、恋人達とベッドに居る時、ジャンと暮らすのはどんな家にしようか考える時、あるいは屋上に土を入れる作業の時でさえ輝いている、根源の「あれ」は彼女の内部にあるのだから。


「建築家としてはいまいちだが編集者として活躍していた」ジャンよりも、作中のコルビュジエの言葉の方がそりゃあ面白い。尤も初対面時のアイリーンに他人の言葉を借りたことを指摘され「女の割には知識がある」とこちらに(その時にそう思ったと)語りかけてくるなんて場面があるように、建築に関しては案外と俗っぽいが、アイリーン周りのことについては陳腐じゃない(笑)「二人の別れ方がまたよくなかった、何のドラマもなく、彼女は毅然と去っていった」なんて、何てことないけどいいじゃないか。ドラマなんて要らない。


出会ったばかりのジャンに「なぜ男と付き合わないのか」と問われたアイリーンは、はっきりと「自由が必要だから」と返す。女達とは一緒にいるのに。作中のコルビュジエ以外の男性は特に暴力的ではないが、力を持つ「ボーイズクラブ」はそれだけで女にとって害である。アイリーンとジョンの家について話し合う時、男三人と彼女がつくテーブルの足元に若い女性二人(それこそコルビュジエが言う「お飾り」)が座っている、あれが差別的な図でなくて何だろう(加えてこのシーンはジャンの「女癖の悪さ」も示している)


ジャンの、アイリーンを愛しく感じているが時に疎ましく思ってしまう、ああいう気持ちは分かる(私は表には出さないけれど)。しかし映画の限りでは、コルビュジエが何かをすることで害を為したなら、彼は何もしないことで害を為したようにも映る。あの壁画を描かれてしまったのが最たる例だろう(アイリーンは「戦争で燃えてしまえばよかった」とまで嘆く)。裏の「小屋」の窓から顔を出したコルビュジエに、彼は「僕が愚かだった」と口にするが、それまでの振る舞い全てについて言っているのだろうか。


「何もしないのは怠惰ってこと」と言っていたアイリーンは、亡くなる寸前まで机に向かって創作に励む。立て掛けられた建築科の卒業証書(だったかな?)何十年も一緒の秘書のような女性が「あなたが(いつ死ぬか)心配だから出掛けない」とそばにいる。そういえば作中しきりに、アイリーンの周囲の女達は「あなたはもっと認められなくては」と言うのだった。そこには彼女への愛の他に、女の仕事が隠されていること(それこそ「Hidden Figures」か)に対するはがゆさもあったのではと想像する。