ブルー・バイユー


冒頭病室に滑り込んだアントニオ(ジャスティン・チョン)の笑顔は完璧な喜びに溢れて見えるが、その実その暮らしは常に嫌がらせをされているようなものであること、またアメリカに養子として引き取られてから「ここにたどり着くまで」辛酸を舐めてきたことが次第に分かってくる。黒人弁護士の「ICEはそういう(君みたいな)人を狙うんだ」と「(君みたいな)現実より移民政策が勝る」は私には矛盾して聞こえるけども、矛盾していないらしいところに恐怖がある。彼はマイノリティがおよそそうであるように、「価値がある」ことを証明できなければ存在が許されなくなる。

パートナーのキャシー(アリシア・ヴィキャンデル)とその娘ジェシーとの買い物の最中、アントニオは自分のバイクを売って家族でハワイに行こうと、お金のない彼らにとっては大きな、しかし何とか手の届きそうな夢を口にする。しかし旅行とはホームがあるからそう言えるのであって、居場所を追われるとなればそれどころじゃない。旅行ではなく「ここにいる」ために理不尽なことに大金が必要となり、彼は仲間とバイクを盗むことになる。

映画の終わりにアントニオ自身が歌う韓国の子守唄は「자장 자장 우리 아가」(ねんね、ねんねこ、わたしの赤ちゃん)だが、この映画には韓国の文化は他に一切出てこない。彼が持っているのは「韓国の母親と赤子のイメージ」のみである。誰も教えてくれなかった、触れる機会がなかった、一人きりだったのだから。一方でパーカー(リン・ダン・ファン)に導かれて赴き彼が圧倒されるニューオーリンズベトナム人コミュニティはボートピープルによるもので、「全滅を避けるため」分かれて舟に乗った、そのことを後悔はしていないと妻を失った彼女の父は言う。そんな理不尽を受け入れている。

ジェシーの「本当の子どもが生まれたら私のことなんて」という言葉につき、アントニオが悲しいから言ったのか本当にそう思ったから言ったのかとしつこく確認する理由は始め分からないが、そのうち彼と「血の繋がり」のない娘とは作品の作り手(ジャスティン・チョン)の中で、あるいは作中でも被っていることが見えてくる。彼女の最後の「私はパパを選んだのに」がこの映画の最も悲痛な叫びである。個人の選択や意思など国の前ではほぼ無である。タトゥーや染髪がやっとの抵抗なのだと言っていい。

「ブルーバイユー」とは私には子どもの頃から馴染みのある東京ディズニーランドニューオーリンズエリアのレストランの名前だったものだけど、実際に現地に起きてきたことを考えると、この映画とディズニーリゾートの脇で展開する「フロリダ・プロジェクト」とが通じているように感じられる。またバイユー(入り江)の水は、アントニオにとって「どこかと繋がっている(けれどもその「どこか」は定かではない)ところ」だったのではないかと思われる。その「どこか」を見つけるのにあんな荒療治が必要なほど、彼は一人だったのだと思う。