語る建築家


アテネ・フランセ文化センターにて開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭で観賞、チョン・ジェウンによる2011年作。がん闘病中の建築家チョン・ギヨンを追うドキュメンタリーで、本人が「講義に声はいらないと神様がもってったんだろう」と話す、何とか絞り出している声を聞く一時間半。その言葉が文字で次から次へと出てくるオープニング、「言葉で説明するのは大変だ」の後にタイトル(邦題は原題直訳)。彼が話をする映像でほぼ構成されており、インタビューではなく講義、ツアー、会議、研究室でのひとコマなど、「君達はラッキーだね」なんて一言も撮影班に向けてじゃないわけだけどその距離感がいい。

仲間によれば「芸術畑出身でフランスで学んだ異端児」はいわく「中に入っていかないやつはバカ」。展覧会のお客の「(韓国に)子どものための図書館は少ない」に私のような素人などえっそうなんだと思わせられるが、チョン・ギヨンは今の韓国では一握りの人々(政治家や著名な、とりわけ外国の建築関係者)がそのプライドのために作った「枠」に市民をはめ込んでいると非難する。インフラに恵まれない地域に作った大浴場に自身で浸かってみるのを始め、韓屋独特だという室内に入ってくる光や何の変哲もなくも見える窓からの眺めを楽しむ彼の姿に、来月公開の同監督『猫たちのアパートメント』(2022)もそういう「内」からの映像が多いのかなと考えた。

会議中の「一方的になりますが…」というキュレーターの前置きにチョン・ギヨン「話とは一方的なものだから」。まさにそうだが、彼が話す(又は聞く)姿を見ながら、しかしここにはそれを意識している彼が最も大切にしている、その、本質的には一方的であるという話を聞く場面はないなと思っていたら、あのラスト!

東大門デザインプラザのコンペでザハ・ハディッド案が選ばれたことにつき同業者が「外国人の審査員にとっては『記憶』など腹の足しにもならなかった」と話すのには、たまたま今読んでいる『母親になって後悔してる』(本国イスラエルで2016年刊)にあった、今の社会では時間がただただ一方方向に流れていくと、あまりにもされているという話を思った(まあそんなことを言ったら何でも何にでも繋がっているものだけど)。