ミセス・ハリス、パリへ行く


街をゆくミセス・ハリス(レスリー・マンヴィル)の後ろ姿からのオープニングに、これが彼女のロンドンかと思う。ニューヨークに生まれデヴォンに移り住んだポール・ギャリコによるシリーズはMrs. 'Arris Goes to ParisにせよMrs. 'Arris Goes to New Yorkにせよ実のところ「ロンドン」の話だから(後者を読むと分かる)。その後の、久々に見た「一瞬見ず知らずかと思う二人」のバスでの場面を皮切りに、お手伝いさんミセス・ハリスの冒険が始まる。

ミセス・ハリスをディオールに案内した男性が清掃人のストライキについて話し「パリでは労働者が主人だ」。作中ずっとどこへ行ってもぶちまけられたままの街路のゴミは、労働者は「見えない存在」じゃないという証である。原作では街をぶらつき観察することで彼女自身がここにも仲間がいると気付くところが、こちらではディオールのスタッフであるマーガレット(ロクサーヌ・デュラン)が一目で彼女を理解し、ナターシャ(アルバ・バチスタ)らモデルに「すてきなお客さんが来た、お手伝いさんよ」とうきうき報告することでパリにも確かに労働者がいると私達に教えてくれる。

映像で見ることで改めて気付く原作のエッセンスというのがある。本作ならやっぱり金だよ、労働の対価は金なんだよ、である。原作では初対面時にミセス・ハリスがバッグからお札をばらまいて「口撃」することでマダム・コルベールと通じ合うのがこちらでは違う展開に向けて随分先に伸ばされるが、それでも彼女が職場でお札をさっと取ったりマダム・コルベール(イザベル・ユペール)の前にどんと置いたりするのを目にして、冒頭のお金にまつわるあれやこれやの場面の意味合いを初めて理解した。

『ハリスおばさんパリへ行く』は他者の中に自身と同じものを見る話だと私は思っているんだけど、本作ではミセス・ハリスとマダム・コルベールの間のそれが「女ならでは」の感情ではなく「私達は必要な存在だということ」だったのが映画化にあたっての大きな変更点の一つだろう。ランベール・ウィルソン演じる侯爵との関係が(ミセス・ハリスの側からの)「恋」になっていたのは階級社会の過酷を表現するための改変だと受け取ったけれど、侯爵のキャラクターが疎かにされているようで少し気になった。

原作で面白いのは、周囲にろくでもないと思われている「女優志願」のペンローズ(映画では見る者に嫌悪感を与えるようなキャラクターでは決してない)にミセス・ハリスは好意を抱いていた、その理由は欲望を持つ者同士だからというところ。この物語は私には夢というより欲望の話なんである(ギャリコも「夢」という言葉を使いはするが)。映画ではミセス・ハリスのペンローズへのこの気持ちが情や優しさとされていたのが(正確には周囲の評であり彼女自身が認めたわけではないが)、劇場に掛かるような映画ともなればそういうものなのかもしれないけれど物足りなかったかな。