サウナのあるところ


脚をあげている女の見られる映画は大抵面白いものだが、この映画もそれで始まる。サウナでくつろぐ、50年以上一緒の夫婦。夫が妻の背中を流してやるのとキスを最後に作中のサウナに女は現れず、以降は男達が一列に横並び、ロッカールームで向かい合いと色々な様子で話す、聞く映像が続く。狭い車内ならまず外から裸の尻を、内部のシーンは近くから撮るのでどアップだ。

一人の場合は喋る相手がいないので黙ったままの映像に自身のナレーションがかぶるのが面白い。フィンランドの男はサウナでは仲間に心の内を話せるという主旨のドキュメンタリーなんだから。彼らの語りはカメラ、あるいは映像内の自分に向かっているのか、それともサウナ自体に促されているのか。本作は作り手の存在を表に出さないタイプのドキュメンタリーだけれども、どうやって撮ったんだろうと興味が湧く。技術のことはともかく、カメラマンも裸だったの?とか(笑)

サウナのタイプは日本版のポスターに載っている電話ボックス型のものからプール併設のもの、自前の車に作られたもの、カフェの隣など様々。作中の話によれば軍にも大人数用のものから一人用のテント式のものまで色々あるそうだ。都会ではサンタのぼやきや家のない者の暮らし語りが繰り広げられる。こんなところで裸に、と驚いてしまうのは路面店の、まさに路面の椅子に座って休憩している姿かな(笑)

映画はサウナから出て服を身に着けた彼らが「リスの歌」を歌うのに終わり、「フィンランドの男達に捧げる」との文が出る。ふと、歌とはそういうものなのだと思う。上映前に客入れの音楽を聴きながらカウリスマキの映画にサウナのシーンがない、いやフィンランドの映画にサウナがあまり出てこないのはなぜだろうと考えたものだけど、映画とは服を着た人間の「裸」の部分こそを捉えるべきだからかもしれない(裸の時に「裸」なのはいわば当たり前)。逆にこのようなドキュメンタリーなら意義がある、実際を伝えているんだから。

カウリスマキといえば「フィンランドの北と南」の意識を私は「真夜中の虹」で初めて持ったものだけど、この映画でも出てきた、「祖父の『南の嵐はまだひどいか?』は祖母の機嫌は直ったかという意味」「金鉱で仕事しないかと誘われて北へ来た、南に未練はない」などなど。サウナの場面の合間に挟み込まれる一つ一つの映像も、男達にとって大事な風景なんだろうと思われた。