ある男


城戸(妻夫木聡)が自宅のテレビのディスプレイに見るぼんやりした彼自身の姿に、TLなどで時折目にする、ゲームや映画が終わった時そこに映る自身に興覚めだというような話…ジョーク?を思い出した。これは人は「外から見た自分」(そのものではなくそれを見る他者の視線がふるう力)から逃れられないという話であり、私は例えばよく言われるように映画を見るのが現実逃避だなんて思ったことはないけれど、そういう一面も確かにあるのかもと考えた。

伊香保を訪れた城戸に「本物は手を加える必要がないんだ」と温泉の湯を自慢する谷口大祐の兄(眞島秀和)。この物語はそのように自分が満足できるものを受け継いだ男とは正反対の、いかんともしがたい境遇に圧し潰されそうになりながら生きてきた元少年達の話である。城戸が大祐(窪田正孝)の絵を見ての第一声「少年のまま大人になったような…」がいつまでも心に残る。

里枝(安藤サクラ)の息子・悠人の「苗字また変わるの?」に母親ばかりが改姓する風潮にはほんと害しかないなとむかつくが、ここで描かれているのは子どもにとって世界とは自分の手ではどうしようもない問題ばかりということなのだと、ベンチに一人残った彼の姿に思う。しかし彼は「父さんが優しかったのは…」と現実を受け止める。これは元少年達が次の世代の少年達への負の連鎖を止める話でもある。

城戸の妻・香織(真木よう子)の「宮崎行き、ほんとに出張?」に、大祐があの町で働き始めた頃の一幕での社長(きたろう)の「脛に傷のない者はいない」がふと頭に浮かび、もしかしたら彼は過去に「浮気」したことがあるのかもしれないと考えたものだけど、映画の終わり、「浮気」をするのは彼女の方だったと判明する。人が他者を見る目には自身が反映されているということだ。義理の父親の食卓での態度など、それで納得して放っておけるものではないが。

(尤も香織の「浮気」は城戸の「この件に入れ込むのは『現実逃避』なのかも」などといった言葉のせい、すなわちあの時にはまだだったのがその後になされたのかもしれない。他にもそういう、見えそうで見えない部分が多々ある映画だった)