冒頭ウィリアム少年(長じてコールマン・ドミンゴ)が自室で一人、影絵遊びをしている。落語の「佐々木政談」にもあるように「子どもは大人を真似て遊ぶ」ものだが、ここで再現されているのは「黒人とその言うことなど聞かず逮捕する白人警官」。1977との数字に、今でも「それ」が存在すると知っている私達には、この映画が「何も変わっていない」と言っているのだと分かる、例え後のオープニングクレジットのように目が眩むほどジェントリフィケーションが進んでも。これは蜂に刺されて伝説…「無実とは程遠いが裁かれない者達」を殺す伝説となる男の物語である。
中盤、主人公のアンソニー・マッコイ(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)がコインランドリーでウィリアムからキャンディマンの正しき由来と「キャンディマンは今なお続く現実だ、象徴なのだ」との言葉を聞かされる時、映画の照準が一度びしっと合って冒頭の「何も変わっていない」が訴えなのだと再確認できる。この後に彼が恋人ブリアンナ(テヨナ・パリス)がキャンディマンの名を唱えるのを止める時、それより前に衝動的にそれをしてしまった人々はその名が意味するところについて何も意識せず、考えもせず生きてこられたのだと分かる。
キャンディマンの始まりたるダニエル・ロビテイル(トニー・トッド)と同じく画家であるアンソニーは公営住宅カブリーニ・グリーンの跡地に建つ高級住宅に暮らし現代美術の寵児にならんとしているが、ウィリアムの「好かれてるのは絵であっておれ達じゃない」にそれでもぎくりとするのだった、空家にタクシーが巡回してきた時に身を隠したように。キャンディマンに憑りつかれた彼がそれまでとは異なる、ブリアンナいわく「解釈の余地がない」作品を手掛けるようになるのは、映画作りの姿勢への言及にも思われた。「被害者を特定の人種に特定する」、作品名「Say My Name」から表れたキャンディマンは、殺すついでに業界でもてはやされているふうの、解釈の余地がある作品を引き裂くのだった。
アンソニーの裸を観客の私達に見せつける場面が多い序盤に違和感を覚えていたら、この映画には、特に年長の白人女性の彼に対する性的欲望も表されているように私には見えた。彼の側は快活に礼儀正しく接しているだけなのに、特に何をしたいというわけじゃなくても、純朴で自分の言うなりになってくれるんじゃないかという存在への目線。それもまた「長く続いている、無視できない現実」なのかもしれない。