武蔵野館にて、上映前の「追龍」の予告で「1974年以前の香港は暗黒時代だった」と聞いてからの、冒頭サンフランシスコでとある席に着いた師匠の顔が何だか沈んで見えてからの、64年の香港。映画の終わりの字幕に師匠は74年を知らずして死んだんだと改めて思わずにいられなかった。
「ランボー ラスト・ブラッド」のエンドクレジットはどのキャストの名前が出ている時でも映っているのはスタローン!だったけど、本作の最後にはドニーさんと共にこれまで接した色んな人が出てくる。前者はランボーにとっての世界の話、後者は世界の中のイップ・マンの話なんだと思った。
今回一番ぐっときたのは、帰宅したイップ・マン(ドニー・イェン)が息子と共に入っていく奥の部屋のドアが開いていたところ。序盤の彼は弟子達がいてもそこを閉め切っていたものだ。やはりこのシリーズは私にとって家の映画だ。
前作のラストでチョン・ティンチ(マックス・チャン)に「大切なのはそばにいる人だ」と言っていたイップ・マンが、今作ではそばにいる息子と心を閉ざし合ってしまっている(カーテンを引いているのは息子だけではない)。そんな彼が海を渡ったアメリカで出会うのが、これまでで最も「事情」の異なる同胞にして同じように子とすれ違っている父親ワン・ゾンホア(ウー・ユエ)であった。どちらの親も自分が正しいと信じて子を叩いてしまう。「海外で見る月も故郷のものと変わらない」とはよく言ったものだ。
終盤バートン軍曹(スコット・アドキンス)が「アメリカは最強の国だ、ここへ来られたことを幸運に思え、アメリカの文化に慣れろ、自分達の文化を持ち込むな」と怒鳴っているところへハートマン軍曹(ヴァネス・ウー)が「人こそ文化だ」と大師匠のイップ・マンと共に入って来る。このシリーズはイップ・マンという文化を語るものだったということが分かる(実在の人物とは違いがあれど)。またハートマンの「中国武術は海兵隊と同じように可変性がある」からは、この映画は海兵隊、すなわち最後の戦いを見ていた兵士達も変わることができると言っていることが分かる。
加えて印象的だったのは、バートン軍曹が自身の行為について「個人的な恨みからだ」とはっきり口にする点。移民への嫌悪感といったものは個人的な感情で、上の者がそれを振りかざすことによって社会に広がるのだと言っている。
文化とは人であり、人によって伝えられるものである。弟子ブルース・リー(チャン・クォックワン)の路地裏での一戦の後にそれを見ていた師匠のカットが無かったのは、物事は誰かが誰かに教え伝えることによって流れていく、止まることはないということの表れに思われた。